●松陰は「誠」を原理として据える
性善の議論にもつながってくるもので、「誠(まこと)」という概念があります。松陰はそれを大変重んじており、「誠」に関してこんなことを言っています。
“根本にさかのぼって考えてみるのに、人間にとって本質的なものはただ一つ誠である。この誠をもって、父につかえれば孝となり、君につかえれば忠、友に交われば信となる。同様に名称は千百と異なっても、つまるところ一つの誠に帰するのである。”
松陰は、非常に原理的な思考ができてしまう人なのですね。現象はいろいろと異なって見えるかもしれないが、しかしそれは、根本的な原理(この場合は「誠」)に帰着させることができるということです。そこから見ると、彼にとってはそれが批判の根拠になっていくわけです。ただ「誠」であればいいとぬるいことを言っているわけではなく、「誠」を原理に据えるというところまで、思索を深めることを要求するわけです。朱子学や陽明学も、「誠」に関して非常に形而上学的な議論をしていきますが、その点を思想の強度において継承していきます。そういったことが、松陰はできたのだろうと思います。それを自分なりに咀嚼して、自らの原理として使っていったのだろうと思います。
●「独」と「同」
もう一つだけ、『講孟余話』からお話ししようと思います。大事な部分なので、長く読みたいと思います。
孟子が食べ物の話をしている部分があります。食べるということは、哲学的に重要なテーマなのです。こう言っています。
“膾炙(かいしゃ、※1)のように世間一般の人が好んで食べるものを食べ、羊棗(ようそう、※2)のように特に好きな人しか食べないものは食べない。姓(かばね)のように共通のものははばからないが、名のように特定の人にかぎられるものははばかる。これが孟子の考え方である。孟子が道を論ずる論じ方は、じつに精密だといわなければならぬ。この問題をもう少し拡げて詳しく説明させてもらおう。”
※1:なますと、あぶり肉のこと。
※2:なつめのこと。
そして、こう続きます。おそらくここがポイントだと思います。
“道は天下公共の道であるから、いわゆる同である。国体は一国の独自のあり方を示すものだから、いわゆる独(※)である。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五者は、天下に共通の関係であるから同である。一方、わが皇国...