社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
弥生時代の吉備に栄えたテクノポリス
昔から、岡山県から広島県東部は「吉備(きび)」と呼ばれてきました。今回は、その吉備の弥生時代が想像以上にすごかった!というお話です。
弥生時代といえば、稲作、農耕、弥生土器……。佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡や、静岡県の登呂(とろ)遺跡などが有名ですが、実は、現在見つかっている弥生時代最大の墳墓(お墓)遺跡は、吉備にあるのです。なぜそんなことになったのか。いったい弥生時代の吉備に何が起こったのか。それを知るのにうってつけの本があります。岡山大学の埋蔵文化財調査研究センターの皆さんが編集した『吉備の弥生時代』です。この本にそって、吉備の弥生時代を見ていきましょう。
お墓の中から出てきたものを見ても、この墳墓とそこに葬られた人物が、そうとう特別だったことがわかるといいます。たとえば、貴重で希少な水銀朱が大量に出土しており、当時その発掘にあたった考古学者をして「あれほど分厚い朱を掘るということは、その後長いことやっていますが、ついにありませんね」と言わしめるほどです。ほかにも、他に類を見ないほど複雑な木槨(もっかく・棺を収めるため木の外箱)や、吉備の王の秘物であったと考えられる弧帯石。また、上質で大量のヒスイやメノウといった玉(ぎょく)類も見つかっており、類の保有状況は西日本トップクラスと言えるほどとのこと。
では、そんなすごいお墓に葬られているのは、いったい誰なのか。実は詳しいことはわかっていません。ただ、広く東アジアを展望するような、当時の日本列島を代表する人物であったことでしょう。この楯築墳丘墓の発掘調査にも携わった考古学者で、同書の編集指導も行った岡山大学文学部考古学研究室特任教授の新納泉氏は、「いわゆる吉備国王などという、一定の地域のトップというイメージではなくて、もっといろいろなつながりを持っているリーダーではないか」と話しています。
平たくいえば、流通・物流を掌握している大物ブローカーのようなイメージです。ネットワークの範囲は、瀬戸内海を超えて丹後や九州あたりまでつながっている可能性が指摘されています。また、吉備は出雲との関係も深く、さらに中国の貨幣が多く出土していることからは、中国王朝との結びつきも背景にありそうだというのです。ちょうど中国の王朝交代の時期でもあり、同書によると、「それまでは九州の博多湾沿岸が後漢の王朝と結んで力をもっていたのが、そこが弱体化してきたことによって吉備や出雲などのブローカーたちが暗躍しはじめて(中略)中国との関係をもってくるというようなことがあったのではないか」と考える専門家もいます。
なんともグローバルで、そして少々キナ臭くもある、吉備の弥生時代。「弥生時代」というと、なんとなく牧歌的な農耕稲作のイメージをもつ人も多いと思いますが、なかなかどうして、ダイナミックで熱い時代だったようで、驚かされます。
弥生中期、実は大きな気候変動がありました。温暖化です。それによって岡山の三大河川(吉井川、旭川、高粱川)から大量の土砂が押し流され、平地が大きく広がります。海岸線が激変したのです。そうして広がり始めた平地のなかで集落が展開していく。吉備がいわば「吉備らしさ」を増していくのは、それ以降のこと。それまでの吉備は普通の農村でした。
さて、集落が大きくなり、人が増え、農業生産力が上がったあと、何が起こったか。遺跡や出土品からは、このあたりでは「ものづくり」が盛んだったということが読み取れます。なかでも際立っているのが「製塩」、つまり塩作りです。それも自給自足のためというよりは「売り物」と考えた方が自然なほどの規模とシステムが構築されていたのです。また、鉄器に加えて、ガラス関係のものを作っていた可能性を示唆するガラス滓も出ています。
手工業生産の痕跡が一定エリアで密集して見つかっている遺跡もあり、鉄器・土器生産や製塩といった高温作業と、石器製作、朱の精製といった細やかな作業が同時に行われていたようです。これほど多種にわたる手工業生産を担うムラは弥生時代後期では珍しく、「先端技術が集積したテクノポリスとしての性格を有していた」と考えられるのです。
その大きな流れの結節点を示すのが、冒頭で紹介した謎のストーンサークルをもつ楯築弥生墳丘墓と言えるでしょう。
楯築弥生墳丘墓は国の史跡にされており、誰でも自由に見学することができます。また、岡山大学埋蔵文化財調査研究センター内に設けられている常設展示室には楯築遺跡の遺物も展示されており、平日は常時開放、無料で見学できます。
弥生時代といえば、稲作、農耕、弥生土器……。佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡や、静岡県の登呂(とろ)遺跡などが有名ですが、実は、現在見つかっている弥生時代最大の墳墓(お墓)遺跡は、吉備にあるのです。なぜそんなことになったのか。いったい弥生時代の吉備に何が起こったのか。それを知るのにうってつけの本があります。岡山大学の埋蔵文化財調査研究センターの皆さんが編集した『吉備の弥生時代』です。この本にそって、吉備の弥生時代を見ていきましょう。
謎のストーンサークルは広域流通ブローカーの墓?
吉備にある弥生時代最大の墳墓。遺跡の名は「楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)」と言い、現在の倉敷市北東部にあります。その規模はなんと全長80メートルに及び、てっぺんには5つの巨石が円形に立てられています。さらに、この謎のストーンサークルの他にも、円丘の両側につく突堤のような突出部や、斜面の二重列石など、なんとも不思議な姿をしています。同書によると、それは「前例のない、巨大で極めて特殊な墓」としか言いようのない威容の遺跡で、「明らかに他とは一線を画す」のだそうです。お墓の中から出てきたものを見ても、この墳墓とそこに葬られた人物が、そうとう特別だったことがわかるといいます。たとえば、貴重で希少な水銀朱が大量に出土しており、当時その発掘にあたった考古学者をして「あれほど分厚い朱を掘るということは、その後長いことやっていますが、ついにありませんね」と言わしめるほどです。ほかにも、他に類を見ないほど複雑な木槨(もっかく・棺を収めるため木の外箱)や、吉備の王の秘物であったと考えられる弧帯石。また、上質で大量のヒスイやメノウといった玉(ぎょく)類も見つかっており、類の保有状況は西日本トップクラスと言えるほどとのこと。
では、そんなすごいお墓に葬られているのは、いったい誰なのか。実は詳しいことはわかっていません。ただ、広く東アジアを展望するような、当時の日本列島を代表する人物であったことでしょう。この楯築墳丘墓の発掘調査にも携わった考古学者で、同書の編集指導も行った岡山大学文学部考古学研究室特任教授の新納泉氏は、「いわゆる吉備国王などという、一定の地域のトップというイメージではなくて、もっといろいろなつながりを持っているリーダーではないか」と話しています。
平たくいえば、流通・物流を掌握している大物ブローカーのようなイメージです。ネットワークの範囲は、瀬戸内海を超えて丹後や九州あたりまでつながっている可能性が指摘されています。また、吉備は出雲との関係も深く、さらに中国の貨幣が多く出土していることからは、中国王朝との結びつきも背景にありそうだというのです。ちょうど中国の王朝交代の時期でもあり、同書によると、「それまでは九州の博多湾沿岸が後漢の王朝と結んで力をもっていたのが、そこが弱体化してきたことによって吉備や出雲などのブローカーたちが暗躍しはじめて(中略)中国との関係をもってくるというようなことがあったのではないか」と考える専門家もいます。
なんともグローバルで、そして少々キナ臭くもある、吉備の弥生時代。「弥生時代」というと、なんとなく牧歌的な農耕稲作のイメージをもつ人も多いと思いますが、なかなかどうして、ダイナミックで熱い時代だったようで、驚かされます。
政治経済を支えた技術力と交易力
このように、いわば「乱世」の様相を見せる吉備の弥生時代ですが、いったい何が、こうした広域流通ブローカーの権力と経済力を支えていたのでしょうか。それを知るためには、まず弥生時代の吉備に起こった「天変地異」をおさえておく必要があります。弥生中期、実は大きな気候変動がありました。温暖化です。それによって岡山の三大河川(吉井川、旭川、高粱川)から大量の土砂が押し流され、平地が大きく広がります。海岸線が激変したのです。そうして広がり始めた平地のなかで集落が展開していく。吉備がいわば「吉備らしさ」を増していくのは、それ以降のこと。それまでの吉備は普通の農村でした。
さて、集落が大きくなり、人が増え、農業生産力が上がったあと、何が起こったか。遺跡や出土品からは、このあたりでは「ものづくり」が盛んだったということが読み取れます。なかでも際立っているのが「製塩」、つまり塩作りです。それも自給自足のためというよりは「売り物」と考えた方が自然なほどの規模とシステムが構築されていたのです。また、鉄器に加えて、ガラス関係のものを作っていた可能性を示唆するガラス滓も出ています。
手工業生産の痕跡が一定エリアで密集して見つかっている遺跡もあり、鉄器・土器生産や製塩といった高温作業と、石器製作、朱の精製といった細やかな作業が同時に行われていたようです。これほど多種にわたる手工業生産を担うムラは弥生時代後期では珍しく、「先端技術が集積したテクノポリスとしての性格を有していた」と考えられるのです。
吉備の楯築弥生墳丘墓は見学自由
ものづくりに秀でた集団、交易のハブとしての好立地、国内外をつなぐダイナミックなネットワーク……。吉備は、古代グローバル社会で、アジア交易のハブとなるテクノポリスだった…?!その大きな流れの結節点を示すのが、冒頭で紹介した謎のストーンサークルをもつ楯築弥生墳丘墓と言えるでしょう。
楯築弥生墳丘墓は国の史跡にされており、誰でも自由に見学することができます。また、岡山大学埋蔵文化財調査研究センター内に設けられている常設展示室には楯築遺跡の遺物も展示されており、平日は常時開放、無料で見学できます。
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
物知りもいいけど知的な教養人も“あり”だと思います。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,300本以上。
『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
55年体制は民主主義的で、野党もブレーキ役に担っていた
55年体制と2012年体制(1)質的な違いと野党がなすべきこと
戦後の日本の自民党一党支配体制は、現在の安倍政権における自民党一党支配と比べて、何がどのように違うのか。「55年体制」と「2012年体制」の違いと、民主党をはじめ現在の野党がなすべきことについて、ジェラルド・カ...
収録日:2014/11/18
追加日:2014/12/09
5Gはなぜワールドワイドで推進されていったのか
5Gとローカル5G(1)5G推進の背景
第5世代移動通信システムである5Gが、日本でもいよいよ導入される。世界中で5Gが導入されている背景には、2020年代に訪れるというデータ容量の爆発的な増大に伴う、移動通信システムの刷新がある。5Gにより、高精細動画のような...
収録日:2019/11/20
追加日:2019/12/01
マスコミは本来、与野党機能を果たすべき
マスコミと政治の距離~マスコミの使命と課題を考える
政治学者・曽根泰教氏が、マスコミと政治の距離を中心に、マスコミの使命と課題について論じる。日本の新聞は各社それぞれの立場をとっており、その報道の基本姿勢は「客観報道」である。公的異議申し立てを前提とする中立的報...
収録日:2015/05/25
追加日:2015/06/29
BREXITのEU首脳会議での膠着
BREXITの経緯と課題(6)EU首脳会議における膠着
2018年10月に行われたEU首脳会議について解説する。北アイルランドの国境問題をめぐって、解決案をイギリスが見つけられなければ、北アイルランドのみ関税同盟に残す案が浮上するも、メイ首相や強硬離脱派はこれに反発している...
収録日:2018/12/04
追加日:2019/03/16
健康経営とは何か?取り組み方とメリット
健康経営とは何か~その取り組みと期待される役割~
近年、企業における健康経営®の重要性が高まっている。少子高齢化による労働人口の減少が見込まれる中、労働力の確保と、生産性の向上は企業にとって最重要事項である。政府主導で進められている健康経営とは何か。それが提唱さ...
収録日:2021/07/29
追加日:2021/09/21