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DATE/ 2025.05.21

『ウンコノミクス』が切りひらく肥料資源の未来

 日本は食糧や化学肥料、家畜の餌といったものの多くを輸入に頼っています。そうして、人々が食してエネルギーを摂取したのち、排泄したものは下水道を通って下水処理場で処理され、最終的には建設資材として利用されたり、埋め立て処分されたりします。ただしこの処分方法は資源が乏しい日本において、たいへんもったいないやり方だと言えます。なぜなら排泄物には、現在貴重な資源となったリンが多く含まれているからです。

 この現状について、状況を詳細に取材、分析し、問題の核心に鋭く迫る書籍が『ウンコノミクス』(山口亮子著、インターナショナル新書)です。著者の山口亮子氏は最終的に「処遇を行政に委ねていること、その行政が保守的で金儲けに後ろ向きであることがウンコの経済価値を損ねてしまっている」と述べています。

 山口亮子氏は愛媛県出身のジャーナリストです。2010年に京都大学文学部を卒業し2013年に中国・北京大学史学系大学院修了しています。その後、時事通信社勤務を経てフリーとなり、農業や中国について多くの記事や書籍を執筆してきました。他の著書としては『日本一の農業県はどこか―農業の通信簿―』(新潮新書)、『人口減少時代の農業と食』(筑摩書房)など、共著に『誰が農業を殺すのか』(新潮社)など多数あります。また、株式会社ウロ代表取締役としても活動し、2023年度には食と農に潜む課題をえぐり出したとして、食生活ジャーナリスト大賞ジャーナリズム部門を受賞しています。

リンの限界が人類の限界

 SF作家のアイザック・アシモフは「生命はリンがなくなるまで増える。その後は、何物も避けることのできない非情な停止である」と述べています。また、自然のレジリエンス(回復力)の限界を示す指標「地球の限界(プラネタリー・バウンダリー)」において、「リンの生物地球化学的循環」は「C.不確実な領域を超過(高リスク)」となっています。これは三段階中で最も危うい状況です。ちなみに、「成層圏オゾンの破壊」は「A.限界の範囲内(安全)」、「気候変動」の二酸化炭素濃度は「B.不確実な領域(リスク増加中)」です。

 2022年以降、世界的な肥料価格はほぼ全面高です。この最大の要因は、世界最大のリン産出国である中国が環境保護に舵を切り、大量の二酸化炭素を放出する肥料工場を取り締まったことにあります。加えて、ウクライナ危機でロシアからの肥料輸入も途絶しました。こうしてリンを輸入に頼っていた日本は「国内肥料資源の利用拡大」を目指すことになります。ここで注目されるのが下水汚泥です。

 下水汚泥はリンを豊富に含んでいますが、現状では数千億円の公費を投じて多くをセメントや下水管などの建設資材としてリサイクルしています。ただし混ぜすぎるとコンクリートやセメントが強度不足になってしまいます。つまり決して下水汚泥は建設資材に向いているわけではありません。現状はこういったリサイクルにお金を払っている状況です。

埋め立てられる下水汚泥(東京)

 本書で山口氏は、日本最大の下水処理場で羽田空港のすぐそばにある「森ケ崎水再生センター」を訪れ、そこでの内容をリポートしています。日本人は一人で一日200リットル以上の下水を出します。この下水は数時間かけて汚れを沈殿させたあと、微生物(クマムシなど)たちの力を借りる反応槽に運ばれ、ここを6時間から8時間かけて通ります。

 こうした処理の過程で東京都では年間、東京ドーム56杯分(約7000万平方メートル)もの下水汚泥が発生します。これはある程度脱水処理されたのち、850度以上の高温で全量焼却されます。腐敗しやすい有機物を一瞬で燃やして無機化し、扱いやすく小さくするわけです。こうして下水汚泥の400分の1に減容化したのち、羽田空港沖の埋め立て地に運びます。

下水汚泥を肥料とする試み(埼玉県寄居町、埼玉県戸田市)

 一方で、肥料として活用する自治体もあります。ウンコを肥料にする最もオーソドックスな方法は、堆肥(コンポスト)化です。本書では、埼玉県の寄居町が例に挙げられています。ここでは年間6000から7000トンくらいの有機性廃棄物を微生物による発酵処理で100パーセント肥料化し、2000トン前後の有機質肥料を製造しています。この有機性廃棄物の7、8割が「屎尿汚泥」、つまり人間の排泄物です。

 また、埼玉県戸田市にある荒川水循環センターでは、下水処理しながら肥料を製造しています。ここは、「森ケ崎水再生センター」に次ぐ日本で2番目に大きな下水処理場です。ここで出た汚泥は、有害物質の発生を防ぐために850度以上の高温で焼かれ、その灰が「菌体りん酸肥料」となります。そこから粒子が飛散しないよう水分が30パーセント程度含まれるように加工されます。

 他にもいくつか、肥料として流通させる工夫をしている自治体や企業の事例が紹介されています。下水道は国からの補助なしで施設を更新するとなると回らなくなりますが、肥料化は事業費の節減につながります。なによりも貴重な資源となっているリンがそこに眠っていることを考えれば、利用しない手はありません。

「ウンコノミクス」は未来を切り開く

 本書では、他にも下水を熱源として利用する事例や、下水汚泥を発酵させることで発生するバイオガス(メタン)を燃料として利用する事例、家畜の排泄物をめぐる問題など、いくつかの興味深い事例が紹介されています。加えて、新型コロナによって大きく注目され、外国では整備されつつある「下水疫学」についても取り上げられています。

 江戸時代には、人糞が肥料として高値で取引されていました。これが近代化により浄化されるべき汚物となりましたが、現代では再びエネルギー源、栄養の源、病気の情報源や治療薬(便移植)として注目されています。山口氏は「まるで存在しないかのように避けて通られる資源。それが浮かばれないまま、国の下水道事業が破綻するなんて事態は避けなければならない」と述べます。

 本書の最後は「ウンコの活用による経済の活性化は遠い昔の話でもなければSFでもない」という言葉で締めくくられています。現在、肥料を輸入に頼る日本は苦境にあります。この状況では、私たちは下水への認識をアップデートする必要があります。こういった意味で、本書はわたしたちの行くべき道標を示した貴重な一冊と言えるでしょう。

<参考文献>
『ウンコノミクス』 (山口亮子著、インターナショナル新書)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-7976-8156-7

<参考サイト>
山口亮子氏のX(旧Twitter)
https://x.com/Ya_Ryoko

山口亮子氏のnote
https://note.com/ryokoyamaguchi/n/n59527c45e525

株式会社ウロのホームページ
https://ulo-inc.com/

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