●イスラムこそがアフリカ系アメリカ人にとっての宗教
皆さん、こんにちは。
前回、あるいは前々回は、ボクシングヘビー級元世界チャンピオンであるモハメド・アリ(旧姓カシアス・クレイ)と、現在の大統領選挙をめぐる共和党のドナルド・トランプ候補に関わる話をしてまいりました。つまり、その背後にあるのはアフリカ系アメリカ人、ひいては彼らにとってイスラムとは何かという問題でした。
アメリカにおける移民以外の古くからいたムスリムの大多数は、アフリカ系アメリカ人、すなわち黒人たちでした。それは現代のアメリカのムスリム全体のおよそ3分の1、あるいはもう少し上回っているかもしれませんが、それほどの数に相当します。
アメリカ人の大多数にとってイスラムは、よそ者の宗教、他者の宗教と思われがちですが、もともとアメリカ初期の歴史や社会をつくってきたアフリカ系市民、すなわち黒人にとっては、そうではありません。黒人にとってイスラムこそ、キリスト教的欧米世界とは違う宗教文化システムとしてアフリカからそのまま持ち込まれたということ、あるいはイスラム教徒であった人間がアメリカにやってきて、そのイスラム教信仰を奪われる、もしくは改宗を余儀なくされる中で、キリスト教を強制された黒人が生まれたということが、歴史の経緯、少なくともその一部であったことは間違いないのです。
したがって、抑圧される黒人・抑圧する白人という構図から考えれば、キリスト教は抑圧する白人、そして黒人を支配している民族や人種の宗教としてのキリスト教であり、抑圧されてきた、あるいは抑圧されている黒人にとっての宗教は、キリスト教ではなく、そうしたものとは別種のイスラムというところに求めることも、歴史的根拠とある種のよりどころとしての正統性があったと、言えるのかもしれません。
つまり、アメリカ人のアイデンティティとは何かといった場合に、必ずしもWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)で語ることはもはやできない時代です。そういう中においてイスラム的要素が、例えば音楽のラップミュージックなどの場合においても、そこにイスラム的言い回しや要素が入っていることがあるわけです。
●組織的な「黒人のイスラム」の出発点―ティモシー・ドリュー
モハメド・アリことカシアス・クレイもまたその一人ですが、そこから引き継いでいる黒人のイスラムが組織的に知られるようになったのは、少なくとも1886年にまでさかのぼるとされています。それは北カロライナの貧しい黒人ティモシー・ドリューという人物が、黒人がアフリカ的な遺産を強める手段として、イスラムの原理に頼るべきだという説教を広めたからです。すなわち、キリスト教は白人の宗教であり、「アジア人」(Asiatics)も黒人だとみなして、黒人の真の宗教はイスラムだと、ティモシー・ドリューは発言しました。
彼は1913年にニュージャージー州のニューアークにテンプル(礼拝堂)を設立しました。これは、「ムーア・アメリカ人科学礼拝堂」と訳すことのできる寺院、もしくはイスラムの教会(この場合には「礼拝堂」と中立的に訳しておくことがよろしいかと思います)で、そこにおいて説教したコーランは、私たちが普通知っているコーランとはかなり違っており、彼によるイスラムの教えは、非常に特殊なものでした。ティモシー・ドリューは「かつて地球上に住んだ人種のうち、最大にして最も誇り高い人種の直系子孫は誰か。それは抑圧された黒人だ」として、「黒人を統一させ彼らに誇りを持たせること。これがイスラムの使命だ」と語ったわけです。ある意味では、白人の人種主義から見れば、裏返しの優越した黒人中心の人種主義と、そして、その誇り高いノーブルな要素を保証するものとしてイスラムがあるという主張でした。この組織はデトロイトやフィラデルフィアにも広がりました。
●さらに激化した黒人のためのイスラム運動
しかしながら、こうしたイスラム的現象は20世紀に入り、かなり変化を遂げます。1929年から30年頃にデトロイトにおいて、ウォーレス・ファード・ムハンマドという人物による新しいイスラムの運動が始まります。ウォーレスの出自については、トルコ系あるいはイラン系ともいわれますが、つまびらかではありません。彼はムハンマドの時代のアラビア半島のクライシュ族に、自分の家系がさかのぼるということも語っているようですが、もちろん真偽のほどは分かりません。
彼は先ほどのドリューなどと同じように、やや変わったイスラム解釈をしています。すなわち、アメリカ人に対しては、アルコールや婚外の性交渉、豚肉の食、そして賭博、こうしたことを全て禁止するように求めました。誰であれアメリカ人は酒を飲んではならない、婚前交渉をし...