●加熱し始めた「中国初の普遍」
「東洋の普遍、西洋の普遍」非常に大きなタイトルを掲げました。1年半前にこちらでお話をさせていただいた時に、非常に知的な議論を共有することができたので、今日はそれをさらに続けようということで、少し挑戦的な内容にしてみました。
副題が「科学、民主主義、資本主義」とあります。この三つは、近代の私たちにとっては、ある種の普遍的なものですね。ただ、それがいったいいかなる意味での普遍なのか。これがすぐに問題になってきます。
日本の近代を少し振り返ってみると、20世紀の半ばまでは「西洋的な普遍に参入していこう。そしてそれを我が物とした上で乗り越えていこう」という方向性がありました。しかし20世紀後半になると、戦争への反省ということもあり、どちらかと言えば日本の思想は、普遍に向かうよりも特殊に向かう方向へ舵を切ったのかと思っています。
ところが冷戦が終わったことで、いよいよそうも言っていられなくなった。日本的な特殊に閉じこもっているだけでは、グローバル化の時代にうまく入っていけないわけです。そうすると改めて、日本にとって「普遍を問う」とはいったい何なのか、当然これが問題になってくるわけです。
ただ20世紀前半と違うのは、今やそういう普遍を問うのが日本だけではないということです。とりわけ私が専門にしている中国を見ると「中国発の普遍をどうするのか」という議論が今、非常に熱くなっています。ただ残念ながら、それが日本の文脈になかなか紹介されません。そこで今日は、その一端を披露しまして、中国で論じられる普遍が、近代日本の考えた普遍とどういう形で切り結んでいくのか、これを軸に考えてみたいと思っています。
●東洋的な普遍を再発明する
これが今日の概要です。現在、中国発の普遍というテーマでしばしば語られるのは、例えば「天下」や「王道」という概念です。もちろん、皆さんは「天下」や「王道」という概念を聞くと、「あれあれ? ちょっと待てよ」とお思いになるでしょう。これは非常に前近代的な概念で、西洋近代と遭遇したときにいったんは捨てられたものではないのか。
確かにそうなのです。(西洋近代と出会ったことで)「天下」という概念の代わりに、「世界」という概念が中国に登場してきます。中国的な「天下」というのは、「世界」にとってのサブ概念、従属概念として考えられるようになりました。その過程で、中国自身が帝国から国民国家になっていったわけですね。ですから「天下」は、いったん捨てられた概念です。
「王道」という概念も同様です。有徳の君主である王がその道を敷き広めていくという徳治の概念です。そういった考え方は、いったん否定されて、代わって民主主義になっていったわけです。ところが現在では、それが改めて問われていくようになっています。
もちろん「天下」や「王道」という概念は、20世紀前半までの日本が繰り返し考えたものでもありました。そうすると、いったい何が今の中国で起きているのかということになります。後で詳しく見るように、現在「天下」や「王道」を主張する人たちは、近代西洋の普遍を超克するものとして、これらの概念を立てています。とはいえ、この「近代の超克」という議論は、戦前の日本がかつて行った議論です。そのため、それをそのまま踏襲するわけにはいかない。戦前の議論に思想的な変容を少し入れることが必要になってきます。そこで非常に面白い思想的な変容が生じている。一言で言えば、より高次な東洋的な普遍を発明しようという努力が今、為されています。
ただそうは言っても、これはそれほど簡単なことではありません。東洋発の、東洋的な普遍とはいったい何か。これは非常に難しい問題です。例えばそれが、副題に挙げた「科学、民主主義、資本主義」とどのように接続をしていくのか。これは難題です。この難題が、今の中国でも再び問われるようになっています。
ただ科学に関して言えば、かつての科学が持っていた絶対性は、随分と揺らいでいます。科学者の中から、科学の絶対性や普遍性を疑う言説が相当数、出てきているからです。こうした、今の科学の普遍性に対する疑義も参照しながら、私たちが問うべき普遍性とは何か、それを考えていきたい。最終的には、「普遍化可能なもの」と「普遍に向かうプロセス」、この二つを区別し、後者の道について少し検討してみたい。このように思っています。
●「中国の夢」とは何か
早速、中国の今の議論を見ていきましょう。「中国の夢」という概念があります。耳にしたことある方も多いのではないかと思います。現在の習近平政権にとって、これは大きなスローガンの一つですね。
「中国の夢」、これが「アメリカン・ドリーム」に対置された概念であるこ...