●日本経済の迷走が、日米関係強化を難しくした
(アメリカは、)クリントン政権時代、行ったことのいくつかが効いていると思います。一つはやはり財政再建です。ビル・クリントン氏は1993年に大統領になって、財政再建を最初に決めたのですね。ロバート・ルービン氏などが書いているように、これが非常に良いシグナルになり、ルービン氏とアラン・グリーンスパン氏の協調体制ができ、その状態で8年やりました。
もう一つは、それまで冷戦時代につくっていたさまざまな科学技術を、基本的に民生用として使えるようにしました。これが非常に効果があったということなのでしょう。
今そういうことに少し関心があってずっと調べていますが、実際問題として、日本は90年代の半ばに1人当たりの国民所得でいうとピークアウトしています。アメリカと日本の経済の規模が一番近くなるのもその頃です。しかし、1998年以降になると中国が出てきて、2006年頃からは中国の方が日本よりも経常収支の黒が大きくなっていきました。明らかに、1980年代から90年代の末までは日本がアメリカの経常収支の赤を埋め合わせしていましたが、7~8年の移行期をおいて、中国がそれをやるようになってきました。そういう動きがあります。
クリントン政権はそのちょうど最後の時期に当たり、アメリカが日本にまだかなり頼っていた時代です。そのあたり、私は必ずしもルービン氏の見方が正しいとは思っていません。覚えているでしょうか。(1996年に)クリントン・橋本合意(クリントン大統領と橋本龍太郎総理の間で交わされた日米安保共同宣言)があり、それで日米安保の再定義があって、(その前には)日米グローバル・パートナーシップがありました。これで大体冷戦が終わった後の日米関係における、一種の漂流状態に終止符を打ちました。ここから新しい日米関係が始まります。
外交安全保障では確かにその通りですが、その後、実は迷走します。なぜ迷走するのかというと、結局金融危機などで日本の中も危なくなったからです。それから東アジア経済危機がありました。その中でルービン氏などは「日本も偉そうなことを言っているが、日本の金融市場はめちゃくちゃではないか。さっさと損切りして改革しないと駄目だ」と言って、もう天から馬鹿にし始めます。彼はむしろ朱鎔基氏とすごく親しくなり、「中国はしっかりやっているが、日本は駄目だ」という感じになります。
逆に日本の方も「そんなことを言うとは何だ」という感じになりました。1997年から2001年ほどまで、すなわちブッシュ政権ができるまでの日米関係は、非常に難しいものになってしまいました。あの頃が日米同盟の大きな転機になったという気がします。
●竹下政権の短命さは、アメリカにとっても想定外だった
私は、80年代後半から90年代、まだアメリカにいました。97年に帰ってくるのですが、クリントン政権の時代は、ほとんど向こうから日本、そしてアジアを見ていました。日本からアジアを見ると、中国はもちろん西にありますし、東南アジアは南にあり、アメリカは東にあるわけです。ところが、私のようにニューヨーク州などに住んでいますと、アメリカから見れば、中国も東南アジアも一つの世界で、日本もその中に入っているのです。そうすると、見方も当然変わってきます。そういう頭で、15年ほど日本とアジア見ていました。
おそらく、日本人が普通に東京にいながら見るのとは少し違う感覚がどうしても出てくるのでしょう。必ずしもワシントンD.C.の見方とは言いません。ワシントンの人たちはどうしてもヨーロッパを見るからです。私は、ヨーロッパにはあまり関心がありません。
これは私の最近の研究に関係があるのですが、アメリカの方から見ると、(あの当時)竹下登さんが2年足らずで辞めたのは、結構「当てが外れた」ことだったと思います。中曽根康弘さんが長くやって、それで「これからは内政が重要になる、それならば竹下だ」ということで、彼が総理に指名されます。
その時、先代のブッシュ政権ができて、国務長官はジェイムス・ベイカー氏でした。ベイカー氏は、竹下さんとプラザ合意を行った人ですから、この人とだったらビジネスができると考えました。両者とも、一種のインサイダー・ポリティクスのやり手です。「ベイカーという人は、いつでも懐にナイフを握っている人だ」と何人かの人が書いているように、とにかく非常にやり手らしいのです。
●90年代のアジア政策を方向づけた宮澤政権
そのような二人で、日米間の経済構造の改革など、いろいろなことをやろうと思っていたら、リクルートのスキャンダルで竹下さんが辞めてしまったのです。そしてその後、不安定な時代が始まります。これをアメリカの方から見ると、「当てが外れた」ということだったのだろうと思...