●蓄積的文化が、他の動物にない人間の特性である
松尾 長谷川先生がいう蓄積的文化とはどのようなものですか?
長谷川 蓄積的文化とは、個別の動物がある特定の環境要素をどう改変したら、自分を楽にしたり、物をおいしくしたりできるのかということを、試行錯誤する中で形成していくというものです。例えば、そうした試行錯誤を眺めていた個体は、それをそのまま真似するのではなく、それは何をやっていることなのかを心で理解しているわけでもないのに、なんとなく「あそこがうまくいっている」ということを見ることで、自分も似たようなことを行動してみようという気が起きます。そうすると、個人学習が社会的に促進されます。それが動物の社会的促進学習なのです。
しかし、基本的にはそこで終わりで、それが全て消えていってしまいます。つまり、非常にうまくいっている行動は、世代を超えて子どもたちや孫にも伝えられるのですが、伝えるということでいっぱいいっぱいで、蓄積してもっと良いものになったりはしません。
しかし、それができるのは人間なのです。例えば、最初に石器を作った人がそのやり方を教えたかどうかは別として、人間には心があることが分かっているし、目的があるということも理解している者同士ということで、あることをやってうまくいくものを作ったから「こういうふうにやればいいんだ」と他の人間に伝えると、そのことが次の世代にも伝わります。そうすると、改めて試行錯誤する必要がなく、すぐにそれを作ることができるので、その類型ができます。さらに、そうすると空いた時間で、もう少し良くするにはどうしたら良いかを考えます。まず矢じりを作り、次の機会には木の柄に付けることのできる矢じりを作る、ということなどがそうです。
それを次の世代が習うと、今度は歯太にし、ひもを付けて投げようとするなど、次第に蓄積的に発展できます。しかも、それが非常に速い速度でできるのが人間の文化の特徴なのです。
●言葉より先に、人間は心への働きかけを行い始めた
松尾 それと言葉は関係しているのでしょうか。
長谷川 言葉は、最初に何か行為ができるようになる際には、あってもなくても良いものだと思います。それより先に心というものがあり、お互いに心が何らかの世界に対して働きかけようとします。自分自身がもっと良くできたら楽しいと思うから、「あの人たちももっと良くできたら楽しい」と思っているに違いない、と考えます。だから、「あの人たちがやっていることを習えば、もっと良くなるだろう」という想像をします。言葉とはこうした能力の上に乗っかっていると私は思います。
松尾 なるほど。では順番からいうと、そうしたことがいろいろできるようになるためには発声が必要なのではないでしょうか。
長谷川 そうですね。発声はその種類がたくさん生まれて、組み合わせもいっぱいできるようにならないと、いろいろなことを表現することはできません。「あ」、「う」しか言えないよりは、「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」が言えた方が良いということになると思います。
ですが、言語の進化とは、発声と記号の組み合わせと文法、それへの意味の付与がどのように進化したかということですが、それよりももっと前に、お互いに心というものが行動を駆動していて、「もっと良くすることを考えている」ということを了解していないと、動物と同じレベルになってしまうと思うのです。
松尾 心が一番先ということですね。
長谷川 先だと思います。心を読んで、心を共有することが先だということです。例えば、人間の赤ちゃんは視線を追うでしょう。そのようなことは猿の場合、やりません。だから、人間固有だと思うのです。
●人間の母子の関係が社会を形成することと関連している
松尾 そこでまた不思議なのが、心を共有する理由とは何かということです。やはり社会を形成し、その中で集団になって敵と戦うからだと思うのですが、そういう動物も結構いたはずです。なぜ人間だけがそうなのでしょうか。
長谷川 私は、集団をつくることよりも先に、母子の関係が重要だと思います。というのは、人間の赤ちゃんはすごく脳みそが大きいのですが、生まれてきたときには手にまだ全然握力がありません。また、人間は毛がないため、猿のようにつかまっていくわけにはいかないので、赤ちゃんは置いておくか抱っこするしかありません。仕事をしようと思ったら、置いておかないといけないではないですか。そうすると、母親や他の兄弟姉妹は距離を取ったところで赤ちゃんの心を推定しなければなりません。赤ちゃんの方も、少し大きくなってくると、ケアギバーが何をしてくれるかということを追跡し、場合によっては「ワー」と泣いたりしないといけなくなります。
それに対...