●仕事を成功させるのに必要なのは、冷静な現実感覚
皆さん、こんにちは。それでは、前回に引き続いて読書とは何か、私が考えている世の中の仕事との関連で、読書というものはどういう意味を持つのかということについて、第2回目としてお話してみたいと思います。
世の中の仕事は、どのような仕事であっても突き詰めて申せば、いわば全て人との交渉、人との商談、あるいは営業活動、あらゆる意味で他人との関係をどう取り結ぶかということや、あるいは社会や他人との関係においてどうすべきかという、この判断の問題に関係してくるかと思います。いかなる仕事におきましても、仕事を成功させるには冷静に現実感覚をもって臨むことが必要です。ないものねだりをしたりしても駄目ですし、夢物語を語っても実際のビジネスには役に立ちません。そして、空想的な理想、あるいは理想主義というものを語るだけでは、営業活動というものに成功するはずもありません。すなわち、大事なことは、冷静に現実感覚、リアリズムを発揮することになります。
●理想主義のプラトンと現実感覚に優れたキケロ、それぞれの国家論
リアリズムとは、時として人によって考え方が分かれる大変難しい定義を含んでいます。あえて申しますと、このリアリズムをめぐる解釈の違いを謙虚に考えるため、また、他人は自分とそういう現実感覚も違うということも含めて、実はそれを何から学ぶかと言うと、基本的には読書を通して学ぶのです。次いでその読書の結果、実際の対人関係等々における実践や、そこでの矛盾や齟齬などによって自分の得た知識をテストするということを、実は人間はしばしばやっているのです。
一例を挙げますと、古代ギリシャの哲学者の一人であったプラトンがいます。紀元前5世紀に活躍したソクラテスの弟子であった人物です。プラトンの『国家』、あるいは国家論は、現実の国家が直面する政策や理念、あるいは政治家の苦悩を考えようとするとき、私はあまりにも政治の厳しいリアリティから遊離し、あまりにも理想を求めている結果、現実に生きている私たちにはやや手の届かない理想の世界で語られているような印象を受けます。これは私の解釈です。
しかし一方、私の昔の同僚でありました東京大学の高田康成教授は、ローマ帝国の政治思想家、政治家であるキケロを書いた本『キケロ-ヨーロッパの知的伝統』(岩波新書)の中において、実はプラトンとキケロを比較してもいます。
高田教授は、プラトンの言う「自分自身の内」なる国家の「政治」とは何か、その国家の「政治」という事象は、本来の「政治」を意味していないのではないか、ということを指摘しています。「人間は政治的動物である」という場合の「政治的」なるこの含蓄に、どうもプラトンの言うその国家の「政治」という言葉は当てはまらないのではないかというように指摘しているのです。
他方、紀元前2世紀から1世紀に活躍したキケロは、プラトンとは違った意味で国家について論じています。その著作は「国家について」という作品ですが、この作品を読みますと、キケロは現実感覚の点において、プラトンと比べて際立って異なることに気がつきます。ここにはキケロがローマ共和国の政治家として、共和政期の政治家として、さらに雄弁家として、また思想家として、彼は共和国のトップである執政官(コンスル)に上り詰めたという事実があります。カエサルによる三頭政治の成立以前に、このキケロという学者中の学者、雄弁家中の雄弁家、この人が現実政治と緊張感あふれる関係を取り結んだということと、プラトンとキケロにおける現実感覚の違いは無縁ではないように思われます。
●学者こそ平時より政治に関わるべきというキケロの現実感覚
国家における政治活動とは、実際に現世の価値判断によって評価することを拒否するという立場もあり得るでしょう。そして、地上のどこにも存在しない理想郷に頼って、現実に存在する国家を否定するという人たちもいるでしょう。しかし、私はこうした考え方によって、現在の政治や国家を考えることには、かなりの限界と疑問を感じるのです。こうした人々の、「時勢」や「やむを得ない事情」によって強いられない限り、「国政」ひいては現実的な政治に参与しなくてもよいという議論、これこそまさにキケロが批判している議論ですが、そうした考え方に私自身は懐疑的になるのです。
キケロはこう言っています。「海が静かなとき舵を取ることはできないと言う者が、大波の逆立つときには舵を取ろうと約束すること」ほど不思議なものはないというのです。
また、「自分は学者だから、自分は理想主義者だから、こうした現実の政治には普段は関係ない。そして、こうしたいろいろな問題について批判をしている、政治批判や政策批判こそが自分た...