●がん対策の現状
私は、地方独立行政法人堺市立病院機構の理事長を務めている門田守人です。2017年までは、日本の厚生労働省のがん対策推進協議会の会長という役を6年間務めました。そのようなことから、わが国の今のがん対策の現状、あるいは歴史についてお話を始めたいと思います。
わが国のがん対策というと、基本的にはがん対策基本法が2006年にでき、2007年から施行されたことが挙げられます。このようなことで、2007年から「がん対策推進基本計画」が行われるようになりました。
そのようなことになった経緯からお話しします。その頃、まだまだわが国のがんの治療成績は、必ずしも満足できるものではありませんでした。そういった意味で、がんに対して治る人、あるいは運よく治る人もいらっしゃれば、そうではない人が少なからずいらっしゃるという状態でした。当時の話題とすれば2005年ごろからでしょうか、がん患者さんたちが治る病院、治らない病院というとおかしいのですが、治るところ、あるいは治る治療法、ないし最もふさわしい治療法を国民にもよく分かるようにしてほしいという声が、患者さんの側から上がりました。
●がん対策基本法制定の経緯
当時も、がん患者の会がさまざまに立ち上がっていました。そして、その中で話題はどうなっていたかというと、やはり一番大きな問題意識は、地域による差、すなわち病院による差、場所による差、あるいは病気による差といった、格差があるということでした。この格差があるということに大きな課題がありました。うまくいく人とそうでない人がいるのはどのようなことなのかということで、この格差が非常に意識されていました。
地域による格差、あるいはがん種による治療技術の差を少なくすることを、「均てん化」といいますが、当時の考えでは、「均てん化」、つまりうまく皆さんにあまねく広く伝わる、あるいはそうした治療を受けられるようにしてほしいというのが、患者さんたちの大きな願いでした。ですから、がん医療の均てん化を図る、というのが当時の大きな話題の中心だったわけです。
そのようなことが言われるようになり、そのためには法律がいります。そこで、がん対策基本法という法律を作ることになったわけです。その当時は最初、さまざまな人たち、さまざまなグループがさまざまな方向から働きかけ、そして、それに対して敏感に反応は各政治、各派が意識を持って、何とかしなければということで、いろんな法案が上がってきたわけです。そういうふうなことがありました。ですが、なかなか1つにまとまった方向としてうまくいかなかったという時代がありました。
そこで、当時、山本孝史先生という大阪府選出の参議院の国会議員がいらっしゃって、実はそのタイミングで自分自身が「進行がんだ」ということをみんなの前で公表されました。そして、何とか自分が生きている間に法律をつくりたいと話しました。これは、患者の皆さんのお願いであるということから、それまではばらばらだった、がん対策基本法が1つの方向にまとまり、そして一気にそれが通ったのです。2006年のことでした。
●がん医療の均てん化対策とその問題点
そして、2007年から、がん対策推進基本計画を作るということになりました。その時、がん対策推進基本計画を作るときに厚生労働省は、国民の皆さんの代表者たちの意見を聞くということで、先ほど申しましたような、がん対策推進協議会が設立されました。委員は20人ということに決まっていたのですが、20人のうちの5人、すなわち国の委員会の4分の1が患者関係者といったような、一種これまでとは少し違った協議会が立ち上がりました。そのような形でスタートを切ったというのが最初なのです。
そのようなことがあり、基本計画を立てなければならないということで考えました。そして、基本計画の第一の目標ということで、がん医療の均てん化となりました。どこでも医療を受けられるということが一番のポイントとなったので、がん医療を行う病院を整理することから始まったといっても過言ではないと思います。そして、がん医療を中心に行う病院として、がん診療連携拠点病院を二次医療圏に1カ所ずつほどを充てるということで、その拠点病院を作り、増やしていくということから均てん化対策が行われました。
まずそのようながん医療の問題が出てきましたが、その時もう1つ大きな問題になったのは何かというと、うまくいく人は別ですが、なかなか思うようにいかないがん患者さんがたくさんおられたことです。がん患者さんの苦痛ということは今まであまり大きく取り上げられたことがなかったので、がん...