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江戸時代、浅間山噴火に抱いた恐れとは?

江戸時代の異常気象と天下人の仕事

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
浅間山の噴火、頻発する山火事、荒波、死者も出るほどの巨大な霰(あられ)。そうした異常気象を、江戸時代の人々は「天の意思」と見た。社会不安を鎮めるために、当時の為政者、天下人が取った策とは?
時間:12:32
収録日:2019/03/27
追加日:2019/05/29
≪全文≫

●江戸時代、飢饉や災害は「天の意思」


 皆さん、こんにちは。歴史において、昔の人々は、例えば平家物語などさまざまな古典においてそうであるように、町中で急に風が起きた、雷が鳴った、あるいは大雨が降ったというような大きな自然の災害というものは、天災としてだけではなく、まさにそこに神あるいは天の意思が、そうした自然現象を介して、あるメッセージを伝えていると考えることがありました。

 これは古代・中世・近世を問わず、かつての日本人であるならば、富士山や浅間山の噴火にある種の歴史の意味を見いだそうとしたり、飢饉や飢餓が人々を絶命させたようなときにも、これはある種の天による意思の表明ではないかというような形で自然や天然の現象を捉えることがありました。

 江戸時代、近世の人々においても、そういう傾向がありました。武士階級から、百姓、農民、商人など、さまざまな階層や職業にいたる人々が、それぞれの立場から意味を見いだしたわけです。寛永8(1631)年4月に、ある書状の中で次のようなことが言われています。現代語に訳して説明しますと、こういう手紙です。

 近年噴火しなかった浅間の山が考えられないほどに噴火した。江戸にも、浅間の方角から風が吹くときは、火山灰が降っている(これは「焼埃(やけほこり)降り申し候」と書かれている。「焼埃」とは火山灰で、すなわち火山灰が降っているということ)。

 浅間山は関ヶ原の合戦や大坂の二つの陣に際しても大噴火したことがありました。徳川時代に入っても、家康の事実上の次男であった結城秀康の子・松平忠直(越前家)が改易された時も小さな噴火をしたと言われています。こうした事実に触れて、いつも浅間山が噴火するわけではありません。これは当時の言葉では「常には焼け申さず候」と書いてあります。


●浅間山噴火に歴史が変化する予兆を求めた


 いつも噴火しているわけではないけれども、3月13日の夜に、格別の光りもの(光るもの)が何か飛んで、その後、昼の七つ時(午後4時頃)にも光りものが飛びました。そして下々の者は何かと詮索しています、と。こういうことを書いています。浅間の噴火や、浅間で飛んだといわれている光りものの背後に、人々は、歴史が変化する予兆を求めた、あるいは歴史が変化するのではないかという恐れを抱いたのです。

 これは、寛永8年4月1日に、肥後熊本藩主になる細川忠利が、父の細川三斎こと忠興に宛てた書状の中に書いてあります。謎めいた人の運命や、説明がつかない光りものの背後に、下々の人々は、歴史が変化する予兆を感じ、戦乱が起きるのではないか、あるいは飢饉が生じるのではないかと不安に思ったわけです。「下々何かと申し候」ことということで、細川忠利は下々の人々がいろんなことを言っていると手紙に書いているのですが、どういうことについて触れているのか、その内容については書いていません。

 しかし、この時、ある事件が進行していました。3代将軍・徳川家光の弟であり家光と将軍の位を争った駿河大納言忠長は、幽閉されていた高崎の地において、やがて自刃、自裁を迫られます。そうした駿河大納言忠長に訪れるであろう悲運、悲劇を象徴しているのではないかと、おそらく細川忠利は考えたのではないかと思われます。忠利は、二代将軍秀忠がまだ最後の命を持ちながらえていた頃、すなわち忠長の死が近づいている時、弟・忠長を自決に追い込む将軍家光の政治に危うさを感じたのかもしれません。それをこのような自然現象の不思議さで書いたことになります。


●異変が続出するのは、豊臣秀頼の十七回忌だから!?


 また、忠利は、同じ年の翌月5月に、次のような手紙を父の三斎に書いています。

 5月の8日、江戸は雷雨に見舞われました。江戸から10里離れた八王寺(面白いことに八王子の「じ」は「寺」という字を書いている)という山間では、大きな霰(あられ)が降り、無数の狐(キツネ)、狸(タヌキ)、鳶(トビ)、烏(カラス)が死にました。そこは御鷹場(将軍家が鷹を獲る場所を「鷹場」といった)で幕府の所有地でしたので、鳥や獣もそこから江戸城に持参されました。

 あられの粒のまわりは約一尺五寸五尺(一尺は約30センチメートル)で、大変大きな霰(あられ)が降ったということです。それより大きなあられもありました。これもお城に持参しましたが、途中で溶けた。溶けた中には、握りこぶし三つほどのあられもありました、と。ですからむしろ雹(ひょう)のようなものが降ったと言うべきかもしれません。人も多数死亡し、多くの負傷者も出ています。握りこぶし三つ分、あるいは約30センチメートルもの大きなあられが降ったわけですから、人々を上から直撃した場合、死亡したり負傷者が出たりしたのも当然です。

 江戸だけではなく、鎌倉の海では龍水...
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