●「乗っ取り」と呼ばれていたM&A
神藏 日本におけるM&A元年は、2005年と言われています。そのあたりの歴史を少しお話しいただけますか。
谷口 株式会社論で非常に碩学の岩井克人先生が、2005年は日本にとってM&A元年だと言われています。この年、ライブドア事件がありました。堀江貴文さんがニッポン放送の株を買った。日本でM&AやM&A用語が非常に浸透する、いいきっかけになったわけです。「コーポレートガバナンス」や「会社は誰のものか」といった話が1つのきっかけになったと思います。
それ以外にも、ペンタックスがHOYAを買収したり、楽天がTBSに買収を仕掛けたり、あるいは村上ファンドが阪神に仕掛ける、ザ・チルドレンズ・インベストメントが電源開発(Jパワー)の株を大量買い増しするなど、M&Aに関する話題が非常に取り上げられた年が、2005年でした。
ただ、それ以前に溯る(さかのぼる)と、昔はM&Aは「乗っ取り」と言われていました。城山三郎さんの小説にも『乗取り』という実話をもとにしたものがあります。財閥解体後、三菱の丸ノ内の土地は、陽和不動産と関東不動産か持つことになりますが、これに目を付けた藤綱久二郎という人物が、陽和不動産の株を買い占めるのです。これはまずいということで三菱財閥の長老たちが集まり、買われた株を高値で買い戻します。
1952年(昭和27)のことで、再び同じような買収や敵対的な乗っ取りが起こらないよう、防御策として株式持ち合いが始まります。株式持ち合いのきっかけとなった事件です。
その翌年には、ホテルニュージャパン火災事件でも有名な横井英樹さんが、百貨店の白木屋を敵対的買収するという事件がありました。これは途中で頓挫して、最終的に東急の五島慶太さんが白木屋を引き受けて事態は収束しますが、M&Aはすでに「乗っ取り」と言われ、ネガティブに見られていたのです。
さらに溯ると1889年頃、当時大阪にあった北浜銀行の頭取が、中小企業の多い紡績業の競争力を付けるため、合併させて大きくしようと考えたことがあるようです。そこで行われたのが、M&Aの嚆矢(こうし)と言われています。
神藏 北浜銀行は、そんなことをやっていたのですか。
谷口 そういう話がありました。その後も日本には多数の電力会社が過当競争をやっていた時代があり、そこでもM&Aの歴史があったと思います。
ただ、大きな流れとしてクローズアップされるようになったのは2005年だったわけです。実際、戦前からM&Aがあったにもかかわらず、日本は戦争をして、それで1931年には岸信介などが出した重要産業統制法が施行されています。あれで日本の重要産業を、国が全部統制していく流れが生まれました。民間がM&Aしてどうこうするのではなく、国が管轄する。
神藏 統制経済が始まるのですね。
谷口 そうするとM&Aの能力は不要ですし、戦後、財閥解体が行われる中でM&Aは別にもういらない、と考えられるようになったのでしょうか。
●いまも残る「統制経済」の発想
谷口 戦後の企業の捉え方は、どうしても「日本的経営」といった話になります。「会社は従業員のもの」「会社はステークホルダーのもの」「会社は社会の公器」といった共同体論的な発想が出てきて、M&Aもアメリカなどで行われているものとは、また違うものとして捉えられるようになったのです。
資本論理が働いて効率的に経営をよくしていくという発想ではなく、「我々のテリトリーを侵している。だから乗っ取りだ」と。そのためM&Aに対するネガティブな感情があり、M&Aが持つ買収のダイナミック・ケイパビリティみたいなものが、うまく発達しなかったように思います。
神藏 面白いですね、この部分は。一方で、その部分があったがゆえに、今まさに企業は政府に甘えるし、政府も甘やかすという、非常におかしなことになっていますね。
谷口 統制経済が日本の経済発展の歴史の中にあり、チャルマーズ・ジョンソンが「政府、特に通産省が産業政策に大きな役割を果たしてきた」と称賛し、クローズアップされました。「日本の経済発展の奇跡は通産省のおかげ、産業政策のおかげ」といった話があるわけです。
それを引きずっている官僚たちもいて、それこそ岸信介らは満州で統制経済の実験をやり、「あれは私の作品だ」みたいな言葉まで残しています。そういうものに憧れている人たちは、官僚の中に少なからずいるのではないでしょうか。官僚にしてみれば、「君ら民間が何を言うんだ」ということで官製ファンドを作り、税金や国民の公的資金を使って、いろいろやったわけです。しかし、その結果はどうか。
(産業革新機構の主導で再編した)ジャパンディスプレイもそうですが、ほとんどがうまく行っていません。政府の「俺がやってやるよ」的な開発主義というか、統制経済を引きずっている...