●なぜビジネススクールで『孫子』が重視されているのか
今回は『孫子』の講義をいたします。
本題に入る前に、2000年ごろに始まった『孫子』のブームに関して、少しご説明をさせていただきます。特にビジネススクールで『孫子』が非常に重視されているのですが、それはなぜでしょうか。その理由は、ビジネスの世界で用いられている戦略論にあります。この戦略論は、マーケティング戦略論に終始しているきらいがあるのですが、それでは本当の戦争戦略論はどこにあるのか、と徐々に関心が出てきます。つまり、マーケティング戦略論の前提としての戦争戦略論をみんなが欲しているのだと思うのです。
この場合、最初に手を出すのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』が多いでしょう。しかし、クラウゼヴィッツの『戦争論』を読んでみても、何か物足らないと感じる。より根源的な戦略論はないかということで、自ずと『孫子』の戦略論にいきつくということになります。
われわれ漢籍を研究する人間のあいだでは、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』の「孫呉韜略」と呼ばれる4篇については、最低限読了することになっております。『孫子』と『呉子』は非常に似通ったもので、本質的戦略論としての思想・哲学がしっかり基礎づけられています。さらに具体的な戦法も詳しく明示されています。
●「戦わずして勝つ」ことを訴える『孫子』のユニークさ
近代戦争戦略論で有名なリデル=ハートというイギリス人がいます。リデル=ハートという人は『孫子』読みで有名で、西洋世界で最も読み込んだ人ではないかと思います。それゆえ、リデル=ハートの機甲戦略論などにも『孫子』は反映されています。また、海洋戦略論という分野では、マハンという人が有名ですが、マハンの海洋戦略論にも『孫子』の影響が色濃く見られると私は思います。
このように、幅広く影響を及ぼしている『孫子』の原文を読んでみると、戦略なるものの本質がよく分かります。『孫子』の主張の最も重要な点は、周知の通り「戦わずして勝つ」ということです。戦略論でありながら「戦わずして勝つ」という主張は、論法として矛盾しているという意見を聞くことも多いのです。しかし、決してそうではなく、むしろ戦いなどしなくても勝てるほどの守備を万端整えることなくして、国家の安定はないといっているのです。
そういう意味では、この「戦わずして勝つ」の他にも、「戦いの備えがもう済んで、これは勝てるぞということが分かってから戦う。戦わないと勝つか負けるか分からないという戦いは、素人の戦いである」と『孫子』には書かれています。
戦いの前に「これは勝ったぞ」と、プロであればお互いに分かります。ですので、敵軍のプロに対して、「今回はわれわれが勝つと思います」と伝えると、敵軍も「残念ながらその通りです」と敗北を認めます。その結果、「それでは決着がついたので戦争を回避しましょう」と和平が成立します。こうして「戦わずして勝つ」という論法が成立するのです。
このように、東洋思想が持っている生命論、つまり命が原点であり、命を保持し大切にすることが最優先という考え方を基本としていることが分かります。東洋思想では、イデオロギーや宗教などをめぐって人間と人間が戦い合って、命を奪い合うのは愚行であり、もっと高次の概念である生命論に基づいて統一を図るべきだと主張しています。
イデオロギーや宗教などに関しては、自分の好きなものを選択してよろしい。しかし、生命に関しては、お互いに重視する。したがって、命と命を互いにやりとりするという愚行は禁じようと提案するわけです。『孫子』は、戦争などという愚行は回避することが重要であり、人間の英知はそのために用いるべきだといっている書物なのです。ですから、戦ってはならないと主張する戦略論という意味で、非常にユニークなのです。
●「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」~戦略の基本は情報にあり~
それでは、本篇の解説に入りたいと思います。本篇は13篇から成り立っています。最初は「計篇」といって、計画に関するものです。戦略論というと、皆さんは丁々発止敵と戦うことを戦略と思われるでしょう。しかし実は、13篇のうち当初の5篇は、「戦わずして勝つ」ためにどのように準備するかという議論に終始しています。現実の戦闘に関係するのは、13篇のうちのかなり後半のほうで説いているのです。
13篇のうち12篇目は、火攻めに関するもの(「火攻篇」)で、13篇目は「用間篇」といって、間者を用いた情報の収集が重要だと指摘しています。皆さんよくご存じだと思いますが、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉を用いて、戦略の基本は情報にありと主張しているのです。「Information War(Info War)」という言葉がありますが、この...