●若狭湾で発見された3艦はどのような潜水艦だったのか
この3つの潜水艦を含む日本の潜水艦などの終戦後の歴史に関しては、防衛庁の防衛研究所の戦史部がまとめています。これは1979(昭和54)年に戦史部が発行した本ですが、「伊121、呂68、呂500、昭和21年4月30日に若狭湾において米軍処分」と445ページに書いてあります。これはこの通りで、正しいのです。
この3艦はこのような形をしています。呂500はユーボートで、長さがおよそ70メートルです。次に、伊121は少し大きいのですが、機雷敷設潜水艦として使われており、潜りながら機雷を撃っていました。次に、呂68は少し古く、水中部分の絵がないのですが、このような中型の潜水艦です。
ちなみに、日本海軍の取り決めで、伊は1,000トン以上、呂は500トンから1,000トン、その下に波(いろはのは)という等級がありますが、波は500トン未満の潜水艦を指しています。
それぞれの歴史を申し上げますと、呂500はユーボートですが、1941年12月8日、太平洋戦争が始まった日に竣工(しゅんこう)しています。なかなか意味深ですね。ドイツでつくっています。排水量は1,000トンを超えていますが、呂に分類されています。潜航時のスピードは7.7ノット、浮上時は18.3ノットです。
第一次世界大戦でも、第二次世界大戦でも、潜水艦は潜れる軍艦のようなものなので、水中速力はあまり速くありません。呂500は7.7ノット、伊121は6.5ノット、呂68は8.6ノットですが、水上速度に比べて水中速度は極めて遅くなっています。また、伊も、呂も、ユーボートも、航続距離が長いのが特徴です。呂500は、13,000海里となっています。これだけ航行できるというのは非常に重要です。だからこそ、ドイツは日本にこれを持ってきたのです。
●若狭湾に沈められる前の3艦の最後の姿
これはわれわれが持っている、3艦の最後の写真です。これは去年の今頃、手に入れたのですが、一番右がユーボート呂500ですね。真ん中は伊121です。よく見るとペンキで名前が書かれています。この舳先(へさき)にも書かれていますが、真ん中の潜水艦には呂68と書かれています。一番左側には伊121と書かれています。これは見ればすぐ分かりますが米軍が間違って書いたものです。
この艦が並べてありますが、これは後から説明しますが、ここにロープが張られていて、船で引っ張っています。それで、この船とこの船は横抱きになっています。それで、このロープ1本だけで引っ張られています。向こう側は舞鶴湾で、ここから出ていくところです。人が潜水艦上に立っているのも分かります。
実は五島列島沖合での海没処分に関しては、写真や映像などの米軍の資料が山のようにありますが、若狭湾での海没処分に関してはほとんどそういうデータがありません。われわれが探し出したのは、この写真だけです。これを見ると、海没処分するすぐ前の艦の状況が分かります。五島列島沖合では爆弾を仕掛けたり、大砲で撃ったり、航空機で爆撃したりして沈んでいったために、かなり壊れています。対して、若狭湾ではキングストンといって、船艇にあるバルブの穴を開けて、水を入れて沈めたようです。ですから、ほとんど壊れてない状況で海底に沈んでいました。
●ドイツでつくられ日本に渡ってきた呂500の歴史
次に呂500の歴史について、ご説明します。先ほど述べたように、1941年12月8日に竣工していますが、艦長はフリードリッヒ・シュタインホフです。彼については後でまた詳しくご説明します。1年後に艦長がフリッツ・シュネーヴィントに代わります。彼が約半年後にロリアンを出て、喜望峰を回って、7月15日にペナンに着いて、8月7日に呉に到着しました。9月16日に日本海軍に引き渡されました。その後、艦長が代わり、最後の艦長が山本康久です。その後若狭湾で海没処分されて、われわれが2018年6月21日に発見したということです。
この航海では、非常に重要な野村直邦という人が一緒に乗っています。彼が書いた記録の中に、いろいろ詳しく書かれています。長くドイツに滞在していましたが、この時に日本に帰ってきました。
次に艦長について、説明します。U-511の初代艦長は、シュタインホフですが、この人は1909年に生まれて、1945年にアメリカで亡くなっています。U-511の艦長をシュネーヴィントに引き継いだ後、U-873の艦長になって、そしてドイツが負けて、終戦になります。その後アメリカ軍の捕虜となって、ボストンで刑務所に入れられて、尋問を受けました。彼はアメリカで自分の眼鏡を壊して、動脈を切って自...