●『イリアス』の多彩な魅力を考える
ホメロスの叙事詩のうち、最初の大作『イリアス』の話に少しずつ入ってきていますが、今日は、『イリアス』の魅力というものを考えていきたいと思います。
『イリアス』は、一言でいうと「戦争叙事詩」で、トロイア戦争の攻防を非常にドラマチックに描く、大河ドラマのような作品です。単に戦争というものを描くだけでなく、エンターテインメントの要素もあり、学びの要素もあり、人類の知恵が凝縮されたような作品です。
では、現代の私たちがどうやって読むかというと、それほど肩ひじを張らずに楽しい場面を見つけて読んでいただければいい。もっといえば、好きな英雄とか好きな場面を見つけて、「私はこれが好き」と言っていただくと面白いのではないかと思います。
前回の最後でご紹介したように、描写自体がなかなかいいということもあります。それから、なかなか面白い場面があって、ギリシアならではというのは、演説の場面が多いことです。戦場でありながら、お互いに議論をするのです。
「戦うべきか、撤退するべきか」とか、また民主主義の先駆けのような時代にもなっていますので、英雄同士が自分の主張を展開していきます。その理論を見ていただくと、年をとったネストルなどという人がなかなか爽やかな弁舌をふるう。また、次の主役になるオデュッセウスという人が知恵にあふれた演説をする。それぞれ個性的な人たちが語る言葉が、それぞれ面白い場面をなしていますので、いろいろな魅力を見つけていただくことができると思います。
●長い戦争の最後の50日を描いた『イリアス』の構成
『イリアス』の構成を少し考えていきたいのですが、トロイア戦争はトロイアというところで起こった戦争です。ヘレネという妃をめぐって奪還に来たわけですが、それだけではない大戦争になってしまいます。
『イリアス』という作品がすぐれている一つの大きな要因は、10年間続いた長い大戦争の10年目のたった50日間を取り上げた構成(ストラクチャー)になっていることです。これはなかなか卓抜で、どこを描いてもドラマがあるなかで、一番最後の年のたかだか50日間だけを描いた。そこに集中して、全24巻が繰り広げられます。
しかも、われわれがよく知っている一番最後の場面がない。トロイアに木馬が入って行って陥落する場面やアキレウスが死ぬ場面はないのです。これは、もちろん意図的です。つまり、そういうところを見せず、その直前の人々の有り様を描くことによって、それ以前を全て振り返り、これから起こることを予示させる。
このような非常にうまい構成で、50日の1日1日でどちらが勝つか、どちらが優勢になるかといったことが起こる。誰が傷つき、誰が死んだということにより、日々刻々と情勢が変わっていきます。非常に密度の高い緊張が続いていきます。
●アキレウスの怒りとゼウスの神慮
このお話の一番最初のところは第1回で読みましたが、「怒りを歌え」でした。これが、全巻の主題なのです。怒りは誰の怒りかというと、アキレウスという英雄の怒りです。
彼は怒っています。なぜかというと、自分が活躍して取ってきた戦利品を、総大将のアガメムノンが勝手に持って行ってしまったからです。これは単に自分の捕虜として連れてきた女性がどうこうではなく、名誉に関わる問題です。
アガメムノンは大国の主だが、自分も一国の主である(戦国の大名たちがみんなで連合しているような感じです)。総大将は彼にお任せしているけれど、だからといって自分の活躍を無下にするような行為は許せない。そこで、アキレウスは怒る。ここから物語が始まり、最後にその怒りが収まるところで、50日間の物語は終わるのです。
その怒りを全て支配しているのがゼウスです。ゼウスは、この怒りに対して神慮を与え、この怒りによりトロイア方とギリシア方の駆け引きの経緯をあらかじめ決めてしまいます。つまり、この戦争では最初からトロイアが負けることが分かっている。ゼウスが決めていたからです。
●攻防戦と「なるべくしてなる」ゼウスの差配
トロイアは陥落することが分かっていたのですから、10年もかけずもっと早く決着をつけてもいいのに、トロイアを攻めているギリシア方(アカイア方)のアキレウスが自分の総大将に対して怒りをぶつけることによって、トロイア陥落はちょっと屈折してしまうわけです。
つまり、彼が単純に協力してトロイアを陥せば、最初からトロイアが負けると決めていたゼウスの神慮は果たされるのですが、アキレウスがアガメムノンに対して怒ることで、いわば内輪もめの状況が起こる。そうすることによって、トロイア方がアカイア方に巻き返すという攻防が起こります。
ゼウスはそれら全てを差配するわけですが、最終的にトロ...