●アキレウスの怒りゆえ混迷状態に陥る勝敗
今回、前半で申し上げたように、『イリアス』の出発点は、アキレウスがへそを曲げて「もう俺はこんな戦争は嫌だ」「故郷に帰る」「こんな理不尽なことは受け入れられない」と、戦場に行かなくなったことでした。そうすると、アカイア方はどんどん負けてしまうわけです。押されてしまう。これはやばい。
アカイア方もそうなのですが、アカイア方に付いている神々も困ってしまいます(ちなみに神々は自分のご贔屓に付いて、それぞれ背後からプッシュするのです)。最初の話を思い出していただくと、そもそもヘレネをこちらに連れて行ったのはアフロディテなので、トロイア方にはアフロディテが付いています。そうすると、彼女に対抗するヘラとアテナがアカイア方に付きます。
このようにして、神々同士が自分のご贔屓で、戦いあう。戦っている英雄のなかには神様の子どももいます。アフロディテの息子のような子どもたちもいるのですが、彼らも最後には死んでしまう。そういう混戦状態のなかで、一進一退の攻防が続きます。
アキレウスは、自分の怒りゆえに自分の味方がどんどん負けてくる。でも、「まだまだ譲れない。絶対に許せない」と言って戦場に出ない。そうすると、「仕方がない。このままだと負けてしまう」ということで、親友のパトロクロスがアキレウスの鎧や武具をつけて戦場に出て行きます。そうすると、ヘクトルに討たれてしまいます。
アキレウスとしては、最初の思惑と違う。今度は親友パトロクロスの敵討ちをしなければならない。そこで彼は戦場に復帰して、最後はヘクトルと一騎打ちをします。
絵に描いたような、もったいぶった流れではありますが、最後は二人の英雄が自分の全てを賭けて戦いをぶつけ合う。これが、やはり人間同士の栄光と運命を賭けた戦いの頂点になる。ただし、どちらも最後は死んでいくのです。
●栄光と運命を賭けた両雄の死闘
こういうせっかくのクライマックスの場面は、この後ご紹介したいと思います。最後の2巻にももう少し面白いことがあるのですが、全24巻のうちの第22巻に、いよいよアキレウスとヘクトルが、トロイアの城外で二人だけで戦う場面が出てきます。
ヘクトルは、自分がアキレウスほど強くはないということをやはり自覚しているので、なかなか出てきません。ところが、ヘクトルは女神アテナにちょっと騙されてしまう。そういうときに神様は時々出てきて、仕掛けをするのです。神様自身は戦わないのですが、人間に化けてちょっとそそのかしたり、姿を変えたりする。つまり、人間には分からないようなところで、何かストーリーが動いています。
ヘクトルは、自分の仲間が付いてきているものとちょっと勘違いをして、安心して城の外でアキレウスと向かい合うのです。でも、それは神様のいたずらで、振り返ってみたら突然いなくなっている。これはもう自力で戦うしかないという最後の場面になります。そこを読ませていただきます。二人が向かい合っているところです。
当時は、お互いに長い槍を投げて戦います。槍で戦えなくなったら、最後に太刀で戦う。そういうわけで(ヘクトルの)投げた槍は見事にアキレウスの楯に当たるのですが、それを打ち破れなかった。アキレウスの楯は神がつくったものなので、真ん中に当たっても残念ながら突き抜けることはできなかった。それで、「もう一本」というと、横にいるはずの仲間がいない。仕方がないので、太刀を抜いて二人で組み合って戦うという、一番最後の場面です。
●剥ぎ取った鎧が仇となった勇将ヘクトルの最期
“こういって鋭利の剣、腰の脇に吊(つる)した頑丈な太刀を抜き放つと、高天を翔(か)ける鷲の如く──か弱い仔羊か臆病な兎を狙い、黒雲を分けて地上へ舞い降りる鷲の如くに身をかがめて襲いかかる。こちらアキレウスも凶暴な戦意を胸にたぎらせて突き進む、胸の前に精巧な造りの見事な楯をかざして身を衛り、首の動きにつれて四本の角の立つ燦然たる兜が上下に揺れると、ヘパイストスが鉢のまわりにぎっしりと植えつけた、黄金の飾り毛が美しく辺りに靡く。暗い夜に群星の間を進む一際(ひときわ)明るい星、天空に輝く星の中でも殊に美しい夕星の如く、勇将ヘクトルに禍難を加えんものと、アキレウスが右手に揮う鋭い穂先の槍がきらりと光る。敵の身の何処に一番隙(すき)があるかと、その美しい肌を眺めていたが、彼の肌の他の箇所はみな、豪勇パトロクロスを討って剥ぎ取った見事な青銅の武具が蔽ってはいるものの、鎖骨が頸と肩とを分つところ、即ち最も速く命を奪う急所である喉笛(のどぶえ)だけが露(あらわ)れている。勇将アキレウスが、勢い込んで向かって来る相手のその個所を槍で突くと、穂先は柔らかな頸をずぶりと貫いたが、青銅の穂先の重いとねりこ...