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『イリアス』の背景にあるトロイア戦争発端の物語とは

「ホメロス叙事詩」を読むために(2)神々と人間ーその2

納富信留
東京大学大学院人文社会系研究科教授
情報・テキスト
『イリアス』<上>(松平千秋訳、岩波文庫)
『イリアス』の背景には、「黄金のりんご」と「パリスの裁定」という有名な物語がある。結婚式に呼ばれなかった女神がイタズラのために「最も美しい女神に」と書いた黄金のりんごを宴の席に落とし、3人の女神が相争うところに裁定者として呼ばれたのが、美男子パリスである。果たしてその運命は。(全9話中第3話)。
時間:09:23
収録日:2020/07/03
追加日:2020/09/13
キーワード:
≪全文≫

●「黄金のりんご」と「パリスの裁定」


 『イリアス』という叙事詩のバックグラウンドを説明すると長い話になりますので、本当にかいつまんで、どういう神話かということだけをご紹介しましょう。

 海の中に女神テティス(Thetis)が住んでいました(この名前も重要になります)。さまざまな背景があり、人間のペレウス(Peleus)という男と結婚させられます。ここから生まれたのがアキレウス(Achilleus)です。

 彼らの結婚式の場に呼ばれなかった神がいる。エリスという争いの女神です。そこで、「仕返しのため、ちょっといたずらをしてやろう」というので、神々が集まった婚礼の場に黄金のりんごを落とします。そこには「最も美しい女神に」と書いてありました。

 そうすると、ヘラ(Hera、ゼウスの妻)、アテナ(Athene、知恵の女神)、アフロディテ(Aphrodite、愛の女神)の3人が「私よ」と手を挙げて争いになった。では、だれに決めてもらおうかというので、裁定者に選ばれたのが、その当時羊飼いをしていた美男子の王子パリスです。

 ヘラはパリスに「私を選んでくれたら、アジアの王様にしてやる」と言い、アテナも「戦いにおける勝利」を約束する。アフロディテは「世界で一番美しい女をおまえにあげよう」と言ったのです。


●ヘレネとパリスの駆け落ちがトロイア戦争の発端


 パリスは、アフロディテを選ぶ。女神は約束を果たして、世界で最も美しい女性といわれたヘレネを彼と結ばせる。ヘレネはスペルタの妃です。現在もギリシアの地方にスパルタという場所がありますが、ヘレネはそこのメネラオスという王の妃だったのです。

 パリスはそこに客人として逗留していながら、妃ヘレネと駆け落ちをしてしまいます。財産を持って故郷のトロイアに戻ってゆくのです。裏切られて妻を寝取られたメネラオスは、当然怒ります。メネラオスの兄は、ギリシアで最も力のあったアガメムノンという王で、その兄弟が復讐のためにトロイアに戦争を仕掛けようとします。

 当時は、いくつもの王国が並在していた時代です。さらに、皆がヘレネを競い合った時に、「誰がヘレネの夫になっても、他の者は皆協力する」という盟約が結ばれていました。そのヘレネが若者に連れ去られたため、ギリシア中の英雄が集められ、仕返しのためにトロイアへ奪還に行くことになったのです。

 そこから始まったのがトロイア戦争ということになり、これ以降10年間にわたって城をめぐる攻防戦が繰り広げられます。以上が『イリアス』という詩全体の舞台です。オデュッセウスの『オデュッセイア』は、その後日譚になります。


●下界の人間の悲惨を見つつ「神々の哄笑」が起こる


 以上、次回からは少しずつ見ていきますが、「神と人間」という話を先ほどしたので、最後に二つの場面を見比べてみたいと思います。

 神と人間は何が違うかというと、人間は地上で苦しみや悲しみのなかにあり、殺したり殺されたり裏切ったり、悲惨や苦難を生きています。神は天上で楽しく幸福な生活を送っています。それはどこで出てくるかというと、人間がもう血みどろの戦いをしているときに、天上の神様は大声で笑うのです。

 「神々の哄笑(こうしょう)」といいますが、大声でゲラゲラ笑う。『イリアス』第一巻、最後のところにそういう場面が出てきます。これからゼウスの神慮によってさらに戦争は激化し、多くの英雄が討ち死にしなければならないという運命が、ほぼ決まった。そういう非常に悲惨な場面で神々はどうしていたかというと、神の間にもちょっと諍いが起こっていました。そこに、ヘパイストスというゼウスの息子が出てきて、父母の諍いを鎮めようとして言います。

“たかが人間どものことで、こうしてお二方が啀(いが)み合い、他の神々の見ている前でわめき立てられては、厄介なことになりかねぬし”
※『イリアス』(松平千秋翻訳、岩波文庫):第一歌より

 などと言うのです。神様が「なぜ、人間などにかかずらうのか」「私たちは幸せな人生(神の生)を送っているではないか」というと、結局みんな「そうだね」と言って宴会を開き、その場は和やかに戻っていく。その場面が以下のようになります。

“こういうと白い腕(かいな)の女神ヘレはにっこりと笑い、微笑を浮べたままわが子の差し出す盃を受け取った。ヘパイストスは他の神々にも左から右へと順番に、甘美な霊酒(ネクタル)を混酒器から汲み出しては、酌をして廻る。息を弾ませて部屋の中をひょこひょこと駈け廻るヘパイストスの姿を見て、至福の神々の間には消すべくもない哄笑が湧き起った。”
※『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫):第一歌より

 つまり、これから悲惨なことが起こる人間の世界を下に見ながら、神様たちはゲラゲラと笑いながら、みんなで飲んだり食ったりしている。なん...
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