●「何でも中央から地方に移せばいい」は間違い
―― 最後の質問ですが、テンミニッツTVの小宮山宏座長がよく「自律分散協調系」という言葉をお使いになっています。まさに今後、ポストコロナの時代には、そういうあり方を模索しなければならないとご提言されています。
この自律分散協調系という考え方を前提とした場合、今後、国と地方はどのような関係にあるべきだとお考えでしょう。
仁坂 さすが小宮山先生、素晴らしい言葉をおつくりになりました。自律も大事だし、分散も大事、協調も大事ということだと思います。
よく「地方分散」といわれます。そこから「何でも、中央から地方に移せばいい。そうすれば日本の今までの問題点は解決される」と議論される方が多いのです。「ガラガラポンすればいいのではないか」という議論はいつの時代でもありますが、われわれはもう少し真面目に考える必要があります。真面目に考えたら、地方分散にはいいところもあるし、悪いところもあります。
悪いところは、例えば何でもかんでも地方へ移すとなって、基準認証の権限、規制の権限などを地方に移したとします。すると地方の首長、例えば私のような人は選挙で選ばれているので、人気が大事です。人気が出るようなことをやりかねない。例えば基準認証でも人々の共感を得るようなことを、パッとやってしまう。しかも、その地域だけでやってしまう。するとAという県とBという県で、基準認証が違ってくる可能性があります。これは企業活動からすると、ものすごく不便なのです。
日本は単一の市場に1億2000万人の良質な消費者がいたから、企業が発展した面もあります。ヨーロッパは「日本に負けてたまるか」と思っていましたが、一つひとつの国が、(現時点でGDPが)最高のドイツでも8000万人ぐらいです。当時は西ドイツで5000万人ぐらいでした。
そういう国が4つぐらいあるイメージで、それぞれが別々の基準認証と別々の企業活動の範囲を設定していたら各個撃破され、1億2000万人の日本に負けてしまう。これが実はEU統合の原動力だったと、私は思っています。結果的に3億6000万人の単一市場ができ、アメリカも2億数千万人の単一市場があります。
そうすると、その中の地域を同体にして活動できる地域と、ナショナル一国で活動する場合と、どちらが有利かというと、大きいところです。自分のところのマザー市場を栄養にして成長できるような企業のほうが、有利に決まっています。1憶2000万人でも小さいのに、それが和歌山100万人となれば、これは大変なことになります。私はその意味では、国がキープする部分と地方に任せる部分は、賢く分けるべきだと思っています。
●大事なことは「責任」と「比較優位」、注意すべきは「もたれ合い」
仁坂 そのうえで大事なことは、「責任」と「比較優位」です。責任でいえば、決められたことについてはもたれ合いをやめて、それぞれ責任を持つ。コロナの対策でいえば、まさに緊急事態宣言解除後の緊急事態措置は、中身を決めるのは、法律でも都道府県になっています。国が同意権や協議権によってケチをつけるときもありますが、説明責任をきちんと果たせるなら、われわれが責任を持って、やればいい。国は緊急事態宣言については責任がありますから、それが国家的に必要だと思えば、やればいい。その代わり、責任を持つことが大事だと思います。これはあまりいい例ではないかもしれませんが、それぞれの責任を、それぞれが果たすことが大事です。
その反対は「もたれ合い」です。例として、よくわれわれ地方側が、「国に基準を示してもらわないとできない」ということを言います。国が行政基準として「こうしなさい」と法律的に命令するなら、それはやればいいですが、そうでなければ、モデルのようなものを国に決めてもらう必要はない。われわれの権限として与えられたなら、自分で考えてやればいいと思います。
全国知事会でも「国が基準を示せ」とよく言います。私はわりに反対しますが、最後まで反対はしないので、私にも責任はあります。そういう点では、それぞれが責任を持つということを、きちんとやるべきだと思います。
そして何を、どのように責任分担するかは、まさに比較優位だと思います。例えば、コロナの世界でいえば、国には多くの医学的知見が集まっています。その医学的知見から「この病気はこうするしか治せない」ということが分かります。あるいはワクチンの開発は、国の仕事です。そういうことをきちんと国はやる。
一方、それぞれの地元にある事情を勘案して、うまくやる必要があるジャンルは、国が一律に権限をキープせず、地方に任せる。
小宮山先生にもちろん賛成ですが、小宮山先生の説を実現するには、責任をきちんと果たすことと、比較優位の考え方で仕事の配...