●人知を超えた存在・神との一体化
そこで、森の奥底に人知を超えた力があって、それを神というわけですが、そういうすさまじい力との一体化ということが重要です。
一体化とはどういうことかというと、要するに人間としての人工性をなるべく排除することによって自分も自然の一員のように、自然と同一の呼吸、同一の息吹というものになっていくことによって、自然との一体化ということになってくる。それが人知を超えたものとの一体化ということです。まさに人知を超えた神なる存在とその力を駆使するということになってくるわけです。そういうものが日本のベースにあったから、老荘思想とか、禅とか、そういうものが高度に発展していったといってもいいと思うんですね。
そういう要素がなければ、あそこまでの発展はない。禅についても、老荘思想についても、この後十分に語ることになりますが、日本にはその淵源として、その土壌に人知を超えた力の存在というものを味方につけるだけの人間的な広がりというんでしょうか、あるいは自然との融合というもののコツといったらおかしいけれども、それはどうすればできるのかというような、そういうものが自然に備わっていたといっていいでしょう。
●非常に重要なのは、見えない存在であるということ
もう一つ、そこから出てくるのは、それをもって運の強さといってもいいんじゃないかと。人知を超えた存在である神と一体化することができたかどうか、そのことを運の強さといっていた。例えば「今日は恵まれて…」というとき、「運に恵まれて、獲物がたくさん取れてね…」ということとか、あるいは、これはもう命が危ないというような状況のときにスッと救われたということも神のおかげじゃないか。
そうやって一体化するというとき、神というものが必ず存在するようになってくる。その神とはどういうものかですが、まずここで非常に重要なのは、見えない存在であるということです。「これが神です」といえない存在であるというところがすごく重要で、ここから、見えないものを見るということになるのです。なにしろ見えない神をあたかもそこに存在しているかのように、要するに使う。これは直観、直覚という、それこそ鈴木大拙が言っている禅の奥義の基本です。日本の場合、そういうものを古代において、古代人がもう十二分に備わっていたといっていいと思うんです。
●アニマの認識がとても重要
ですから、日本文化の淵源に縄文文化が色濃くあるといっていいと私は思うんです。それはいつしか一つのまとまった形態、つまりお祭りごと、祭祀になる。神に対してよりわれわれの恭順の意をあらわすとか、一体感を求めていくとか、そういうものにどんどん発展していくということで、これは世界中で見られるものですが、「アニミズム」といいますよね。このアニミズムが重要なのではなく、アニマ、霊力というものの認識が当時、とても重要だったんじゃないかなと。
当時は何といっていたかですが、そこは何ともいいようのない力であると感じていたと思うんです。霊力という、何か人知を超えた非常に大きな力というものがあって、それと一体化したときは運が強くなるし、ものの助けを得られるし、そういうものである。私は、神道の基本というものは縄文時代にすっかり出来上がっているといってもいいんじゃないかと思います。
われわれはそういうものをいまだにどこかで引きずって生きている、という自覚をもう1回持つ。その自覚ということがなにしろ重要です。私はこの大転換期の出発点に、もう1回日本人を自覚する、日本的を自覚するということが非常に重要であり、そういうことを考えていかなければいけないということをずっと申し上げているのですが、ここのところ、そのことが非常に重要だと思うんです。