●日本の田んぼは神との共作
ですから、日本のものづくりというのはちょっとすごいねと言っているのは、そういう環境と、それから日本人、シリーズ内でこれまで言っているように縄文の昔からずっとその空気を吸って何万年とやってきた、そういう民族というものの特性が相まっているということです。
その象徴が田んぼなんです。私自身も行ってみましたが、日本の田んぼというのはどうしてこんなに美しいのかというと、田の神、生産の神との共作だからです。
まず神との共作の概念ですが、これまでに「運が強い」とか、「収獲は神との一体化」という話をしました。日本に農耕というものが入ってきて、それが田んぼという場所を媒介として、田の神と農民との一体化を想起することになっていく。
したがって、そこに神様に来てもらわなきゃいけない。だから、そこは汚れたところではダメで、やっぱり清く澄んだところでなければダメだと。なぜ清く澄んだところが神様の来るところなのかというと、日本は森林山岳地帯であるからです。森林というのは水がめを表している。水がなにしろ豊富で、しかもその水は山岳地帯を走っているということで、いずれも急流になっている。そして、水は清いものであると。川の水といったら、われわれにはそれはきれいでしょうという概念があるというお話をしたけれども、清いもの、そういうところに神は降霊するという考え方がありますから、清くなきゃいけない。
田んぼなんていうところは米が取れればいいじゃないかという発想もあるけれど、より良いものが取れなきゃ意味がない。そういうクオリティというものを神の領域まで考えて、われわれは長年ものづくりをしているというすごさがあるわけですね。
●田の神と供食する「あえのこと」
それで、どうするのかというと、秋になって、要するにたくさん取れたというと、田の神様に対する御礼というものをしなきゃいけないというんで、「あえのこと」(祭礼)をする。「あえ」というのは共作したものを共食するということで、神との共食というのは非常に重要な行為であります。今でも「直会」(なおらい)というものをやりますが、あれもその名残です。
ですから、そういう意味で、共食を一緒にする、作ったものを一緒に喜んで食べる、こういうのができました。「よかったね、いいですね」と言いながら、一緒に食べる。そういう意味で、豊年の稲を天秤棒の前と後ろに付ける。たわわに実った稲がちょうど狐の太い尻尾に似ているから、お稲荷さんというんですが、つまり稲荷信仰です。あれは「いねなり」信仰ですから。伏見稲荷が基本ですが、伏見稲荷も「いねなり」神社です。
戸主が天秤棒をかついで田んぼから帰ってくると、その家のずいぶん先まで紋付き羽織袴、礼服を着た男女がずっと並んでいて、誰かが「神様ござった。神様ござった」(神様が来ましたよー。神様が来ましたよー)と言うわけです。そうすると、みんなが「ありがとうございます。おかげさまで豊年になりました。どうぞ」と言って、家の中に入ってもらう。
玄関を入るや否や、戸主が「お風呂を先にしますか。お食事を先にしますか」と聞かれる。何か、非常にリアルな話ですが、そう聞かれると、まず大体が風呂へ入る。そういうところから始まる。そこは、非常に神を擬人化しているというか、何か故郷のお父さんが訪ねてきたときのような、そんな感じで、非常に親しさ、敬愛の関係というものを感じるようになる。というのは、全て「ムスビの神」というところから来ているんです。いいですか。
●日本国土自体がエネルギーの塊
そのすぐ次がすごいんです。
「次に国稚(わか)く浮ける脂の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時」
「国稚く浮ける脂の如くして」というのは、まだ国がそれなりの形をまだ持っていない、漂っているような、そういう時です。それがだんだん、だんだんと固まって、日本列島というものができてくるんでしょう。それを「海月なす漂える時」だといっているのです。
「葦牙(あしかび)の如く萌えあがるものによりて成りませる神の名は」
「葦牙の如く萌えあがるものによりて」ですが、ここがすごい名ぜりふといってもいいぐらいのもので、「葦牙の」というのは萌え立つ、つまり芽がバッと出てきているところです。長い冬が終わって、「春だなぁ、ちょうどこれから」ということで、雪に閉ざされた田んぼへ行くと、だいぶ雪も解けて地面が現れてきている。よく見ると、いろんな芽がパッと吹き出ている。まさに日本の生存力、エネルギーというものがそうした地面からいっせいに起き上がってくる。そのことを「萌えあがる」といって、芽が萌えあがるというわけです。
つまり、日本という国土自体がエネルギーの塊なんだ、そういうことを表して...