●世阿弥とアニマの関係
まず私は今日申し上げておきたいのは一つ、縄文のエネルギーというものを忘れないでもらいたいということです。その後、縄文のエネルギーがそのように表れるのかというと、時代的変遷でお話しするようなものではないので時代が下って申し訳ないけど、今がちょうどいいときだから、ここでそれについてお話をしておいたほうがいい。要するに、日本文化の集大成者である世阿弥という人は何をした人かということをここでお話をしておく必要があると思うんです。
世阿弥と、これまでにお話しした霊力、アニマとの関係については誰も言っていないんだけれども、これが非常に重要で、世阿弥だけではなく、その次を継いだ千利休もそうだし、それから松尾芭蕉もそうです。それから私は、芭蕉の次の後継者は小堀遠州だと思っていますが、その遠州もそうです。みんなに共通していえることが、アニマという霊力、つまり日本人の奥底に眠る霊力と関係があるということです。時々、バッと噴射する、そういうところが基本で、近代でいえば戦後の復興とか、そういうところにすさまじい力がダッと出てくるような、そういうものが重要だということです。
まず、それにはそういうものが噴火というか、噴射しやすいような状況、その環境をつくらなきゃダメなんだと。ところが、今の社会は理屈ばっかり言っているから、古代人のように純粋無垢で天真爛漫にバーッと喜ぶ、そういうことにはならないし、喜びの分析などをして、「それは喜ぶべきことなんですね」なんて言っている。でも、そんなことじゃない。それは日本人らしくないと言っていいでしょう。
●世阿弥の父・観阿弥の田楽能
そこで、ここから世阿弥という人を借りて、アニマがどのように噴射したのかということを話します。
要らないかもしれませんが、世阿弥についての前提として、少し言っておいたほうがいいと思うのは、世阿弥を語るには必ずお父さんの観阿弥を語らざるを得ないということです。
観阿弥は、一説には出自は伊賀の服部氏だと。服部半蔵の先祖の服部氏だといわれていた。で、母は楠木正成の姉妹、つまり南朝方ということです。ですから、そういう意味で、とてもややこしい家柄の人で、そこから田楽能というものから始まった。
田楽能とはどういうものか。田んぼとか畑とか、農作業は肉体的に非常に厳しいですから、なんとかそれを和らげる方法はないかというときに、どこの国でも、厳しい労働には必ず歌がつきものです。例えば、ブルースというものがなぜアメリカで起こったのかといえば、綿摘みですよね。綿摘みの労働歌なんです、あれは。何でも、苦しいときは歌が助けてくれる。そういう歌が先行するということがあるんです。
当時もそうで、要するに田んぼのこちら側で田楽一座が来て、トントコトントコとやっていると、軽快に労働が進んでいく。例えば、「今日は田楽一座を呼んであるから、田植えを一挙にやってしまおうよ」ということになる。現代でいえば、何かの特別なときにバンドを呼んできて盛り上げる、そんなものなんです。田楽一座とはそういう一座だった。
そして農閑期になると、土の匂いがする人たちが今度は腹を抱えて笑えるような、そういうものでなきゃいけなかったから、ものまねというものがものすごく重要になる。ものまねも、現代のような有名人のものまねではなく、猿のまねとか犬のまねとか、そういうものをまねて、みんなで笑い転げる。そういうものだったんです。
●高度な芸術としての能を目指した観阿弥
だから、観阿弥という人は能を芸能として志したわけで、どこまで行かなきゃいけないかというと、寺社猿楽、要するに神様に演能してというところまでです。ですから、奈良の神社、仏教寺院とか、そういうところに演能に行くということです。
究極は公家を相手にして、非常に高度な芸術性を加味したもので、最終的には、将軍が御成になったところで将軍にかわいがっていただけるような、そういう一座に育てなきゃいけないということで、観阿弥は戦略を練るわけです。どうすればこんな辺鄙なところでやっている一座が、将軍の目にも感動を与えられるような、洗練した一座になれるのかということをよく考えた。
そうすると、ここが観阿弥のすごいところで、自分の時代に自分がやれば、洗練されてなんとかできるだろうと大体の人は思うけど、「いや、無理だ、ダメだ。それは息子の役割だ」といって、息子の世阿弥に全部託すわけです。つまり育て方が違う。公家の教養、連歌とか、それから蹴鞠とかそういうのを徹底的に教える。要するに公家の子弟のように育てる。それで公家の子弟ができることは全部完璧にできるようにする。そうして、観阿弥は自分の夢を全部息子に託した。そういう親子なんです。