●古代共和政を支えた人間観は近代では時代遅れという問題
しかし、このような古代崇拝が、これまた『社会契約論』に一つのジレンマを持ち込んでくるのです。それが何かを説明したいと思います。
結論を先にいうと、両者が依拠する人間観が全く異なるということなのです。ルソーが賛美した古代の共和政を支えた人間観は、人間は生まれながらに共同体で生活しようという自然的な傾向を持つ、というものです。現代風にいえば、人間は本能的に共同生活を送るようにつくられているという考え方です。
アリストテレスのポリス的動物(zoon politikon)という概念をご存じの方もいるかもしれません。これは、まさに今、指摘した人間観を代表しています。人間はミツバチのように群居する動物だが、ミツバチとは異なり、理性や言語を持っているので、自分たちがあえて選択して一つの政治共同体に生活する。しかし、その政治共同体は、人間が人間としてあるためにもなくてはならないものである、という人間観だったのです。
しかし、ルソーはそのようには考えていません。自然的人間は孤立して他者には無関心であり、放っておけばいつまでも一人で生活し、家族もつくらない、というのがルソーの人間観なのです。したがって、国家は自然に形成されるものではなく、まさに契約といった人工的な手段でつくりあげなければいけないものである、という発想に至るのです。
実は、このように国家を自ら契約することによってできる人工物と見なす発想は、トマス・ホッブズという17世紀の政治哲学者が打ち出した考え方であり、ルソーはこの点ではホッブズと同類であるといえます。ホッブズはアリストテレスを厳しく批判して、ナンセンスだと断じた人です。したがって、当然人間観が、全く異なるのです。
しかし、ルソーは古代の政治にインスパイアされ、一般意志に基づく政治を実現するには、国家において人間が自己利益より共同利益を選ぶ、いわば道徳的存在にならなければならないと信じていました。確かに、国家における人間が、共同利益を喜んで選ぶような道徳的存在であれば、全員直接参加の集会で採決を取っても、一般意志の名に値する共通善を実現する法律が制定される可能性は、大きく高まります。
しかし、どこにそのような道徳的存在がいるのでしょうか。実際、ルソーは文明社会の人間の堕落を厳しく糾弾する急先鋒のような思想家でした。この点は、『人間不平等起源論』という作品で、もっぱら論じられています。自分だけの利益を図り、他者に優越することに快感を覚えるような文明人のエゴイズムが、『人間不平等起源論』では厳しく断罪されています。このようなあるがままの人間は、どのようにすれば祖国愛と公共精神を備えて、共同利益を追求する理想の市民になり得るのでしょうか。これは、難問中の難問となりました。
読者もそのように感じますが、当のルソーが最もその難しさを理解していたわけです。そのために、さまざまな提案をします。例えば、卓越した能力を持つ立法者なる存在がいれば、一気にその国に一番ふさわしい制度をつくってくれるでしょう。そのように制度がつくられて、ゲームのルールが大きく変わると、人間はまたたく間にそれに適応して、有徳な市民になる、という説も唱えます。
それから、より分かりやすいものの、反面問題含みなのが、宗教の力を借りるという議論です。法を守り、契約を守り、そして共同利益を追求する、という道徳的な存在には、来世での報奨が与えられ、魂が救済されるという教義があれば、それを信じる人間は道徳的な存在へと変革されるのではないかというものです。
●一般意志を突き詰めて考えたため、論争的な主張になった『社会契約論』
さて、このような議論になってくると、『社会契約論』の議論に共感する人もいるかもしれませんが、反発を感じる人も少なくないのです。もしルソーが、全体意志なる概念を持ち込むことなく、よりシンプルに一般意志を捉えていたら、つまり多数決で物事を決めて、それが一般意志だと考えていれば、どうだったでしょうか。また無理に直接参加にこだわらず、代表制民主主義でも良いと唱えれば、どうだったでしょうか。そうすると、選ぶのは人であり、実際そのようになるかはともかくとして、一般の人よりは政治的判断力や経験知もあると考えられる人々が選ばれて、法律をつくる。その場合でも、主権は市民にあるともいうことはできます。多数決で物事を決めることで、十分人民主権であるとも解釈できたのです。
ルソーの議論がそこまででとどまっていれば、良かったかもしれません。またあるいは『社会契約論』をそのように解釈することも十分可能です。しかし、個人と共同体との関係について高い理想を掲げたがゆえに、ルソーは良くも悪くもそのよう...