●議会の決定に対しても制限をかけるべきと主張するモンテスキュー
―― 次は民主政についてお聞きしたいと思います。講義の中で、ルソーは直接民主主義を目指したと指摘されました。確かに当時は直接民主主義を実現することは難しかったと思いますが、現代に目を向けると、IT技術の発展とともに、例えば日曜日の8時に投票するように呼びかければ、全員が投票するということが可能になるかもしれないという状況になってきています。もし可能であるとすると、直接民主主義がもたらす新たな問題が浮かび上がってくると思います。
先ほど、モンテスキューは民主政でも権力を制限しなければならないという指摘をしたというお話しがありましたが、ルソーとモンテスキューの二人の思想に基づけば、IT技術の発展により直接民主主義の可能性が考えられるようになった時代において、私たちはどのように正しい制度を形成することができるのか。二人の思想は、この問題についてどのようなヒントがあると思われますか。
川出 そうですね。モンテスキューの場合にはおそらく、全員が意志を表明してその結果として多数決で選択された決定が、正しいものとして独り歩きするという事態に対しては、強い警戒感を示すと思います。議会でつくられた法律に対しても、それを制限する別の主体が必要だという議論です。
モンテスキューはそこまでは考えていませんでしたが、後々の制度でいえば、日本やアメリカの違憲立法審査権のような形で、人民による意志決定に制限をかける取り組みがなされています。議会に関しても制限をかけることを求める人なので、ましていわんやIT技術の発展をや、ということだと思います。例え可能になったとしても、その仕組みを警戒するのがモンテスキューの発想です。
本当にそうした直接民主主義的な仕組みが実現してしまえば、なかなか簡単には批判できない正統性が付与されてしまいます。現在の制度では、一票の格差の存在や、実際には市民全員が一票を投じているわけではなく、代議員が投票しているだけに過ぎないといった形で、抜け道が多くあります。本当の民意は別にある、という言い訳というか、綻びは存在しているわけです。しかし、もし本当に全員が参加するとなると、そこで表明された意志は、それが本当に正確なら、非常に強力なパワーを持ち、その決定に逆らうのは難しいように思います。ですので、その危険性に関しては、やはりモンテスキューは継続して批判的だろうと思います。
●現代のテクノロジーで一般意志に到達できるのか
川出 ただ、そうした想定が一番生きるのは、やはりルソーだと思います。実際にそうした議論を展開する人も多いのです。テクノロジーの発展の中で、ルソーの一般意志に相当するものを生み出すことができるという議論をされる方もいらっしゃるのです。
おそらく両面がいえると思うのです。直接参加が実現するのであれば、それを集計することで直接民主主義の実現ということになると思うのですが、しかし、おそらく最も大きな問題となるのは、そこに至るための議論や討論が可能なのかという点です。その点に関しては留保する必要があると思います。
いくら制度が整っていても、全員がお互いの意見をぶつけ合って、いろいろ考慮する時間がなければ、なかなか実践は難しいと思います。しかし、もしかするとそれも可能となるかもしれません。すると、本当に一般意志が実現する可能性もあるわけです。ルソーはそうした未来を読んでいたという可能性も、一つの考え方としてはあると思います。
ただ、もう一つの見方としては、前回も指摘したように、そのように表明される意見はやはり全体意志に過ぎないという可能性もあります。その点に関しては、ゆっくり熟慮する機会を担保できるかにかかってくると思います。それも担保できるのであれば、一般意志と全体意志が一致して、政治への直接参加が十分に可能ということになります。
しかし、それが不可能であれば、その場合の意志決定は、非常に強大な全体意志が現れてくるに過ぎません。他者が何を考えているかは全く考慮することなく、全員で一斉に投票して集計された結果は、単なる全体意志です。時間をかけて、たとえ対立し合っても、妥協したり競争したりするという過程がないとだめなんだということになると、単なる一斉投票では、ルソーのいう全体意志になってしまうといえるでしょう。
厄介な問題は、そこまで十分に時間やコストをかけることができるのかという点にあります。現在の代議制民主主義では、その過程を少数の代表者が代わりに行っています。十分にその機能を果たしているかはともかくとして、そのシステムに相当する役割を直接民主主義が果たすことができるのかという問題はあります。