●「ナンセンスだ」と切り捨てられた社会契約論という発想が出てきた背景
―― 加えて、今回のシリーズの中で政治学的に日本人がなかなか理解し難い部分について質問したいと思います。
一つは「社会契約論」という考え方です。各人が自由であるけれども、国家をつくるに当たって契約を結ぶという考え方は、日本人的にはなかなか頭では理解できても腑に落ちない部分があると思います。日本の成り立ちにもよると思いますが、どちらかというと自然発生的な国家という考え方が強く、社会契約論だけでなく、自然権などに関しても、馴染みづらさを感じると思います。ヨーロッパの人々は、この議論をどのように受容しているのでしょうか。
川出 社会契約論は、ある時期には活発に論じられましたが、まさに今指摘されたような批判は、ヨーロッパ人の中でも多く見られます。モンテスキューもそのような日本人的な感覚にやや近いというか、放っておいても少なくとも家族は形成され、寄り集って地域の共同体も形成されていく。国家はその延長線上にあるという考え方です。他にも著名な人を挙げれば、例えばエドマンド・バークやヒュームは、「社会契約論はナンセンスだ」と切り捨てました。
では、なぜそのような発想が出てきたのでしょうか。さまざまな人が主張していましたが、一番の大元はシリーズ講義にも出てきたトマス・ホッブズです。ホッブズが、人間の自然的な自由、平等、そして契約によって国家をつくるという議論をした最大の理由は、人間は自然に共同体の中に生まれ落ちて、そこにおいて自己実現していく、放っておいても国家はあらかじめ存在しているという、アリストテレス的な人間観や政治観を当然のように受け入れるのはおかしいと批判したかったためです。ルソーはその点でホッブズと同じスタンスを取っています。
実際にそのような自然状態があったのか、あったとしても、では歴史の中で契約はいつ結ばれたのかという類いの批判はいくらでもあり得ます。しかし、むしろそのように国家を捉えようという発想を評価すべきです。
●内戦に伴う国家の存立の危機がホッブズを社会契約論に駆り立てた
川出 ホッブズがそのような議論を発展させたのは、内戦期でした。国家はほとんど崩壊しかねない状況で、真っ二つに割れて戦争していました。そのような経験をする中で、国家が普通に存在するという前提に対する疑念が生じるのは当然だと思いますね。さらに、革命が起きれば、国家を暴力でつくりかえてしまうことも可能です。そうした経験を少しでも持っていると、先ほど述べたように契約論的に人間や国家を捉えて議論したほうが、より国家の実態が理解できるのではないかという主張が出てくるのも理解できます。国家の存在を当然だと見なしているが、本当にそうなのか。国家がなくなってしまうと、人間はどのように行動するのか、という発想なのです。
そして、ひとたびそのような発想で物事を考えるようになると、今まで見えなかったものが見えるようになり、しばらくの間はその発想が共有されます。一からつくり直す国家を考えたときに、どのようにすればより良い国家がつくれるのだろうか、という思考実験が続くのです。
ホッブズの後にジョン・ロックが登場し、ルソーが登場しました。いずれの思想家も重厚な議論を展開しましたが、あえていうならばフィクションであることは薄々理解しながらも、その道具立てを用いることで、より世の中がよく見えてくるとでもいいましょうか。ですので、世界のどこにそのような契約で形成された国家があるのかと反論しても、議論が噛み合わない、もしくはすれ違ってしまうのです。その発想から考えてみることで、初めて見えてくるものが多くあると思うのです。そのような契機として、社会契約論は存在しているのだと思います。
―― やはり一種の思考実験のようなものなのですか。
川出 そうです。
●社会契約論は専制政治の正体を暴き出し矯正する手段を考える
―― 先生の本日の冒頭のお話でも、モンテスキューもルソーも自由を否定する専制政治を共通の敵としていたという指摘がありましたが、社会契約論という枠組みを用いることで、その敵の正体を暴くというか、浮かび上がらせるという側面があったのでしょうか。
川出 まさにその通りだと思います。本日は『社会契約論』のみを扱いましたが、『人間不平等起源論』はまさに敵の正体をあぶり出す作品です。その敵の正体である抑圧的な専制国家は、強い者、持てる者が、弱い者、持たざる者をうまく巧妙に騙してつくり上げた国家です。「君たちも自分たちのものを奪われると困るでしょう。だからやはり国家が必要だよね。警察が必要だよね。だから、そういうものをつくりましょう」といって、持てる者、強い者が働きかけたのです。
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