●自由主義の思想家モンテスキューと民主主義の思想家ルソー
皆さん、こんにちは。東京大学法学政治学研究科教授の川出良枝と申します。本日は、モンテスキューの『法の精神』とルソーの『社会契約論』についてお話ししたいと思います。
この二人は18世紀フランスで活躍した思想家、あるいは作家です。皆さんご存じだと思いますが、モンテスキューの『法の精神』は、権力分立あるいは三権分立こそが政治的自由を確立するための鍵とする主張や、法律や社会や文化の多様性の強調、さらには奴隷制批判などが、重要な貢献として挙げられます。大雑把にいうと、モンテスキューは自由主義思想を確立した重要な人物です。
他方、ジャン・ジャック・ルソーは、人民に主権が存在し、そのためすべての市民が政治に参加して法律を作るという政治制度を構築する必要があると、『社会契約論』の中で主張しました。ルソーは、まさに民主主義思想のチャンピオンといってもよいと思います。
モンテスキューの『法の精神』は独立後のアメリカの憲法制定過程に大きな影響を与え、ルソーの『社会契約論』はフランス革命に大きな影響を与えました。この二つの著作は、歴史の大きなうねりの中に重要な足跡を残したという意味でも、非常に重要な作品であるといえます。ここではモンテスキューを自由主義の思想家、そしてルソーを民主主義の思想家として大括りにまとめましたが、さらにこの二人を比較してみたいと思います。
●モンテスキューとルソーはどんな人物だったのか
まず、モンテスキューは、写真にあるラ・ブレード城というお城の持ち主でした。彼はボルドー(フランス南西部の都市)出身の貴族で、あまり熱心ではありませんでしたが法律家でした。ラ・ブレード城はボルドーのお城ということで、連想された方もいらっしゃるかもしれませんが、それは正解です。ボルドーにあるシャトー(城)ということで、モンテスキューもワインの醸造家として有名です。そして、ワインの輸出にも非常に熱心だったという側面があります。
モンテスキューに関して、非常に重要なポイントとしてご紹介したいのは、1728年から3年間という長期にわたってヨーロッパを旅行したという事実です。オーストリアやイタリア、ドイツを回り、中でも1年半にわたってイギリスに滞在しました。この経験が、彼の思想に重要な影響を与えました。この点に関しては、後ほどゆっくりお話ししたいと思います。帰国後、それこそまさにワインを長い時間をかけてゆっくり醸造するように、『法の精神』という作品を完成させました。このような背景を持っている人物です。
他方、ルソーはフランス人ではありません。彼はスイスのジュネーブ市の出身です。父親は時計職人で、ルソーは修業に出されました。16歳の時にその修業先に嫌気が差して家出をして、その後、各地を転々としたのちパリに落ち着くという経緯があります。
最初は音楽家を志していました。懸賞コンクールに応募して、見事に最優秀賞を受賞しました。『学問芸術論』という作品の出版も実現し、一躍文壇にデビューしています。その後、本日のテーマである『社会契約論』や、『人間不平等起源論』などの重要な政治論、また小説作品である『新エロイーズ』を執筆しています。実は、本国フランスではルソーは『新エロイーズ』の作者として有名なほどに、大きな評判を博した作品です。さらに、教育論として有名な『エミール』や、数々の自伝的作品も残しています。
先ほども指摘した通り、ジャン・ジャック・ルソーはジュネーブ出身です。当時の大ベストセラー作家だったにもかかわらず、フランスの華やかな雰囲気に馴染めず、好んで自らをジュネーブ市民と名乗っていました。この点を補足しておくと、当時のジュネーブは共和政を取っていました。これは、一部の富裕な市民階級が政治に参加するというエリート支配体制で、「民主政」と呼ぶことはできません。それでも、ルソーは父親と同じく、この市民階級に属しており、自分はジュネーブでは参政権を持つ市民であるという事実を非常に誇りに思って、自分はジュネーブ市民であると好んで名乗ったとされています。この事実は、彼の『社会契約論』を読むときに、忘れてはならない一つのポイントであるといえます。
●商業の発展を称賛するモンテスキューと伝統社会の維持を求めるルソー
もう少しこの二人を比較しましょう。次は、経済の見方をもとに比較したいと思います。
当時の経済は、商業という概念で語られていました。これは国内市場の取引と、それよりも重要な海外交易から考えられていました。モンテスキューはこの商業の発展が、これからのヨーロッパの鍵となると考えて...