●「一般意志」「特殊意志」「全体意志」という三つの概念を持ち出したルソー
さて、ここまでの人民主権の確立という主張で終われば非常にシンプルで、良くも悪くもこの書物が問題含みとなることもありませんでした。ところが、ルソーはさらに議論を進めていきました。ルソーには、はたして各人の意志と共同体の意志が、常に調和的に一致するものかという、疑念があったのです。
少し補足して説明します。先ほど、法律に構成員が同意を与えなければいけないという意味での人民主権というお話しをしましたが、それはあくまでも例えば多数決に則って物事を決めるなどのルールに対して納得して、形成されたものが法律であるということです。常に全員一致でなければいけないなどと、そこまで強いことをルソーは主張していたわけではありません。このことも踏まえた上で、ルソーが先ほど抱いた疑念について、さらに議論を進めていきたいと思います。
ルソーは以下のような議論を導入します。「一般意志」とは何か。そしてそれを考えるためにそれと「特殊意志」、そして「全体意志」という、三つの概念を持ち出しました。
一般意志とは、一般的普遍的対象に関わるもの、そして共通の利益を求める意志と規定されます。特殊意志は、それぞれの個人が自分の利益を追求するための自分自身の意志です。一般意志と特殊意志が異なるのは理解できると思いますが、問題は次の全体意志です。この全体意志とは、特殊意志の単なる総和であると、ルソーは主張します。そして、一般意志は当然、特殊意志とは異なりますし、特殊意志の総和にすぎない全体意志とも異なると指摘するのです。さらに、一般意志は決して間違うことのない、理性的意志であるとして、一般意志の無謬性を主張します。
●「一般意志」という概念に潜んでいる危険
それでは、一般意志とは一体何なのでしょうか。一般意志と全体意志が異なるとするならば、単純に考えると議会における多数意見はもしかすると全体意志であり、真の国民の利益を追求する一般意志ではないのではないか、という話につながります。確かに、実感としてそうした感覚もあるかと思います。多数決で決まればどの法律も良い法律かというと、そうではありません。非常に長期的な観点からすれば、国家にとって大きな不利益をもたらすような決定も、多数決でなされてしまうことがあります。また、多くの人にとっては良い決定であっても、少数の人の権利を著しく侵害するという場合もあります。それでも、多数決で決めたものだから、大丈夫という共通理解のもと、通用してしまいます。それは本当に、一般的、普遍的、理性的で、間違うことのない一般意志などといえるのかという、疑問は当然思い浮かぶと思います。
この意味で、全体意志と一般意志を区分するという発想は非常に重要ですが、別の観点を取ると、やはりリスクの大きい考え方ともいえるわけです。多数決でなされた決定が、実は一般意志ではないとするならば、では一般意志はどこにあるのでしょうか。こうなると、すべてのことに目が行き届く、優れた為政者に頼むという選択肢が出てきます。モンテスキューに関する説明の際に、有徳な為政者の話をしました。本当に心の底から国民のことだけしか考えておらず、本当に一般意志を理解している人がいるならば、多数決で物事を決めるのではなくて、その人に政治を一任すれば良いのではないかという議論にもなりかねません。
実際、よく知られている通り、ルソーの『社会契約論』は、フランス革命に多大なる影響を与えました。その影響には、実は正の側面と負の側面があります。フランス革命のジャコバン独裁期、いわゆる恐怖政治の時期に、まさにその独裁を正当化する議論として、ルソーの一般意志という概念が用いられたのです。さまざまな難しい問題を抱えているので、そう簡単に切り捨てることはできない部分もありますが、一般意志という概念にはこのような危険も潜んでいることを付け加えておきたいと思います。
●「一般意志」を実現するために直接民主主義の導入を主張する
さて、フランス革命の話にも触れましたが、またふたたびルソーに戻ります。このように、一般意志の実現は、非常に理想が高いものです。それでは、そのような一般意志が織り込まれた法律を形成するための、具体的な制度設計に目を向けてみたいと思います。実はこちらのほうもまた理想が高いのです。
先ほど、ルソーはすべての市民に立法権が備わっていなければならないと主張したといいましたが、より具体的には、市民が直接参加して法律をつくらなければならないという、直接民主主義の主張なのです。『社会契約論』には、よく引用される有名な代議制批判の一節があります。以下になり...
白水社 2010