●イエス・キリストならどう考えるか
江口 2000年に12年間務めた台湾総統を辞めますが、そのときから「自分はどうやって台湾を統治してきたか」を自分自身で振り返るのです。そこから出てきた言葉が「私は私でない私(我是不是我的我)」なのです。
2008年には後半の「私でない私」だけで、「私は私でない私」という言葉は2010年以降です。振り返って、「自分はどのような心持ちで政治をやってきたのか」「総統の役割を果たしてきたのか」を考えてみると、やはり信仰が非常に大きかったと。
李登輝さんは26歳で結婚して、奥さんがクリスチャンだったからクリスチャンになっていきます。プロテスタントで、本当に敬虔なクリスチャンでした。だから「困ったときは聖書をパッと開く」と。どこと決めて探すのではなく、パッと広げて指をさすそうです。指さしたところに書かれている内容について、「これは何を意味しているか」「このように解釈して政治を行えということではないか」と考える。そんなことをしきりに言っていました。
―― なるほど。それはすごい人ですね。
江口 そうなってくると「周囲からの脱却」ではなく、「私からの脱却」になるのです。「私でない私」とは、「周囲に甘えてはいけない」という意味での脱却です。自立していくのです。
ところが統治する際には、自分に甘えず、自分を超えた観点でやってきた。そのように台湾を統治してきたと振り返って思うわけです。それで「私は私でない私」という言葉が出てきた。結局は、自分からの脱却なんです。周囲からの脱却ではなく。
自分からの脱却となると、その先にあるのはゴッドであり、イエス・キリストです。「私の体の中にイエス・キリストが生きている」。それは「自分はイエス・キリストの化身である」といった傲慢なものではなく、「イエス・キリストならどう考えるか」「ゴッドならどう考えるか」。要するに、最初は周囲からの脱却があり、そして最高指導者になって自分からも脱却するのです。
―― そこにゴッドがいるわけですね。
江口 自分からの脱却とは、言わば「私に囚われない」「李登輝個人に囚われない」。神の目から「台湾はいかにあるべきか」「どう治めるか」を考えていったのだと思います。李登輝さんに確かめたわけではないですが、最高指導者になったときに「自分からの脱却もした」というのが私の仮説です。それが「私は私でない私」になる。
「自分は神」「イエス・キリストの目線で」とも、おっしゃっていません。ただ、そのように自分というものから離れて、もっと高いところから政治をしてきたのではないか。そして政治家は周囲に甘えてもダメだけれど、究極においては自分に甘えることもダメだと。自分に依存する、自分を頼ることもダメで、自分を超えた「私は私でない私」という心がけが必要ではないかということです。
●青春時代を日本で過ごして身につけたもの
江口 これは中国との関係も、日本との関係においてもそうです。李登輝さんは日本賛美者で、日本贔屓と言われますが、そうではありません。かなり厳しいことを言っています。「日本は中国に隷属している」「アメリカに依存している」「もっと自主自立の国づくりをしなければいけない」と。進歩は伝統を踏み台にしなければいけない。しかし今の日本人を見ていると、戦前のいいものを捨てて伝統を否定する、自虐的なものの考え方をする人たちが出てきていると。「これは日本の国としては反省すべき」といったことを、かなり厳しく言っています。
―― かなり本質を突いたことを言われていたのですね。戦前の日本のこともよく知り、しかも相当難しい立場です。台湾で、大陸からやってきた国民党の人たちと一緒にやり、副総統や総統になっても、まだそんなに権力基盤が強くない。そういうときに、ものすごく忍耐強く、党や行政を民主化するにあたり、いろいろなことをやっていく。
旧制中学、旧制高校、それから京都帝国大学の残滓を踏まえて、かつアメリカに渡って農政の第一人者になる。その過程でクリスチャンとして生きていく。そういうスケール感の人って、いらっしゃらないですよね。
江口 そうですね。22~3歳まで日本人だった。多情多感な青春時代を日本人で過ごしたことで、日本人の教養主義というか、本質的なことをいろいろ考える素養を李登輝さん自身が身につけたのだと思います。