●「人道上」の名目で認めてはどうか
―― 李登輝さんは日本にたくさんファンがいましたが、来日されるときは全部、江口さんのアレンジですよね。
江口 9回の来日で7回は直接・間接にやっています。第1回目は、台湾の別荘に呼ばれて相談を受けました。李登輝さんが「江口さん、ちょっと来てくれ」と言うので行くと、地下の書庫で「日本に行きたいんだ」と。ところが日本がなかなかビザをおろしてくれず、入国を認めてくれない。「なんとかできないか。政府に働きかけてくれないか」と言われたのです。
当時は森喜朗政権で、幹事長が中川秀直さんでした。椎名素夫さんを訪ねたり、森喜朗総理を訪ねたりしましたが、みんな李登輝さんの訪日は難しいと。「江口さんもご承知のように、中国との問題がいろいろあるでしょう」と。
―― 中国との関係で。
江口 外務省のチャイナスクールです。2001年の話で、李登輝さんが総統を辞めて、すぐですから。「なんとかしてください」と言ったら、「ならんもんはならんよ」と森総理には言われました。
それでも執拗にお願いしようと思っていたら、2、3日後に、ある会合があったんです。森総理も参加していて、森総理のところへ行って「招くことができないなら、少なくとも訪日を認められませんか」と言いました。「あんたもしつこいねえ」と言われましたが、私としては「総統の座を降りたのだから、影響力があるといっても認めていいではないか」という思いがありました。
それで「『人道上』ということで訪日を認めてはどうですか」と提案したんです。私は李登輝さんの心臓が悪いことを知っていて、体内にステントが9本入っていたんです。それを私によく話していたので、「治療という名目で」と言ったら、「あっ、人道上という手もあるねえ」という話になったんです。「じゃあ、人道上ということでちょっとやってみよう」となり、あの訪日が決まったのです。
―― それで動いたのですね。
江口 「倉敷のお医者さんにかかる」という名目で。関空から大阪に入り、大阪の帝国ホテルに泊まり、1週間ぐらいいました。それからも倉敷の先生のところへ通うということで、2、3回行きました。その間、大阪の街を歩いたりして。
東京に来なかったのは、条件があったからです。「東京に入ってはならない」「記者会見してはならない」「講演してはならない」とか。