●実験や観測が重視されるヘレニズム期に「地動説」を考案
時代は下り、ギリシアはアレキサンダー大王が率いるマケドニアに征服されます。そうして文化の交流が進み、ヘレニズム時代を迎えます。ヘレニズム期は、実験や観測が重視されることになります。
実は、そこで出てきたアリスタルコスが革新的なことを言い始めます。彼はギリシア出身ですが、ヘレニズム期にエジプトのアレキサンドリアで活躍しました。実はコペルニクスよりも1000年以上前に「地動説」を考案しているのです。
彼はどうやってそういうことを言い始めたかというと、太陽と月までの距離の比、つまり地球から月と地球から太陽までの距離の比を、スライドでお見せした図のような幾何学的な考察から算出したのです。月がちょうど半月になっているときに、月と太陽の角度を測定したのです。そうすると、地球から見て月と太陽はほぼ90度の位置にある。これはつまり、太陽はとても遠くにないといけないことになるわけです。
太陽と月は角度的に同じような大きさに見えますが、太陽はもっと遠いということです。遠いけど月と同じ大きさに見えるということは、とても大きくないといけないということになったわけです。ということは、大きなものが小さなものの周りを回るというのはおかしいのではないかということになります。
さらに彼は、月と地球の大きさの比も求めています。なので、太陽は地球よりもはるかに大きいということも分かってきました。大きなものが小さなものの周りを回ることの不自然さから、実は太陽の周りを地球や月が回っているのではないかという説を提唱します。
ただ、自信がなかったのか、あまり強く主張しないのです。「こういう考え方もありますよ」といった主張といいますか、そのような文献の書き方をしているので、当時はあまり注目されませんでした。ですから、文献は残るのですが、当時の趨勢からは外れていくことになりました。
●天動説を体系化した天文書『アルマゲスト』が1000年以上読まれる
そうこうしていくうちに古代ローマ時代、プトレマイオス(アレキサンドリアで活躍していたエジプト人)が「天動説」を体系化して、一つの本にまとめあげます。それが天文書『アルマゲスト』という本で、1000年以上にわたり天文学の古典として長く読まれることになるわけです。
彼は、前回お話ししたアリストテレスたちが発達させた天動説をさらに改良して、惑星の動きを精密に説明することに成功しています。どういう考えかというと、スライドの図で一番下が地球ですが、その周りを惑星や太陽が回るわけです。このとき、ただ回るわけではなく、円軌道を描きます(これを「搬送円」といいます)。さらにその円軌道の一点を中心として、「周転円」を回る。なので、円軌道の中に小さな円軌道があるということで、らせんを描くような形になる。実際、惑星などの運動は、「周転円モデル」といいますが、このモデルでかなり説明がつくわけです。
これによって天動説は体系化されて、以降、1000年以上にわたって信じられることになるのです。
●ルネッサンス期、コペルニクスによる地動説の再発見
さらに時代は下り、ルネッサンスが到来します。ルネッサンス期には、人間の自由な思想というものが発達するわけですが、その流れの中でコペルニクスが出てきます。ポーランド出身の方です。
この方は、キリスト教の仕事をしながら、天文学の研究をしていました。そしてプトレマイオスの『アルマゲスト』を読んで、違和感を抱きます。それは、神様がつくった世の中がこんなに複雑でよいのかという違和感だったらしいのです。
その中でいろんな文献を読んで、アリスタルコスの地動説に行き着きます。コペルニクスは地動説を唱えたことで有名ですが、実は自分で考案したわけではなく、再発見したということです。
そして、ある論文を書くわけですが、それは『天球の回転について』という論文で、太陽の周りを惑星や地球が回ることによって、いろんなことがうまく説明できるのではないかという内容です。これは、1530年頃という、割と早い段階で出来上がったのですが、ちょっと発表に躊躇したらしいのです。当時はキリスト教の影響下で、こうした異端な学問、異端な説は迫害される運命にあることは目に見えて分かっていたので、刊行を躊躇して、親しい人だけに見せるにとどまったらしいのです。
ただ、それが広まってバレバレになり、ローマ教皇にもバレてしまいます。ローマ教皇は、発行したほうがいいのではないかという手紙を送ってきたそうです。ただ、当時は宗教改革が始まった頃です。...