●ヘーゲル哲学に不満を感じて経済の研究へ
それでは、カール・マルクスに関する講義を続けます。第二回目の講義です。
カール・マルクスは、最初は法律を勉強していました。当時の若者の多くと同様、父親に法律を勉強すると生活が安定すると助言を受け、エスタブリッシュメントになるために法律の勉強を始めました。しかし、彼は途中で法律を学ぶことに飽き、本当に学びたかった哲学を学び始めるのです。前回指摘した、ヘーゲルの哲学などを中心に勉強しました。しかし、ヘーゲルは体制派の思想家です。ドイツは立派でなくてはならず、立派な国家を建設しなければならないなど、ドイツにとって必要な提言を多く残しました。
しかし、ヘーゲルよりもかなり後の世代に属するカール・マルクスには物足りなく感じられました。それは、社会の中に新しく出現している矛盾への対応に言及していないということでした。大きな工場が次々と建てられ、モクモクと黒煙が出るようになり、鉄道も開通するなど、社会は激変の只中にありました。
その中でのし上がってきた、資本家、ブルジョアジーなどの新興階級が新たなドイツの担い手となっていました。しかしその一方で、膨大な数の人々が食うや食わずの生活で貧民街に住み、安い賃金で働かされていました。彼らの人間的生活の条件は酷いものだったのです。このような巨大な矛盾が生み出されていましたが、これを放置しておいていいのだろうか。これで立派な社会を建設したといえるのだろうか。これらの点について、ヘーゲルは何も指摘していません。そのため、マルクスはこの社会の現実を考える手立てをいろいろと追究していったのです。
革命家の予備軍といっても過言ではないヘーゲル左派の人々は、ヘーゲル哲学を用いて社会を分析しましたが、マルクスはそこに限界を感じました。現在の社会に問題を見いだした場合、富裕層や権力者など特定の対象を見つけ、彼らを追放すればいいというアナキストのような思想になりがちですが、マルクスの考えではそのような思想は安直なのです。彼らを追放した後にどのように社会を組織すればいいのか、そもそもなぜ彼らのような存在が出現したのか、このようなメカニズムが分からなければ、本当に問題を解決することにはならないと考えました。
このような考えに基づき、彼は経済に目を向けました。その理由は、当時の社会変革の根本は、経済の革新、資本主義の勃興にありました。資本主義の分析は、経済学の役割です。そこで、経済を基礎として自分の哲学、世界観を構築しようと試みたのです。これがマルクス主義の出発点です。彼は革命家となりましたが、その革命の基礎に経済を置いたのです。
●エンゲルスをパトロンとして経済学を学び『資本論』を執筆
それでは、経済をどのように勉強すればいいのか。当時のドイツには、まともな経済学は発展していませんでした。フランスにも経済学の萌芽は見られましたが、もっとも進んでいたのはイギリスでした。当時世界でもっとも先進的なイギリスの経済学(古典派経済学)を勉強する必要があると認識し、学び始めました。
彼は革命家なので、各地で追われる身となっていました。官憲の手が伸びづらいフランスとドイツの国境地域で新聞などを発行していましたが、そこでも危機が迫ったため、イギリスのロンドンに亡命し、そこで図書館で勉強をしながら『資本論』を書きました。これが彼の後半生となります。定職にも就かず、原稿が売れていたわけでもなかったので、生活は大変厳しいものでした。
マルクスには、同じヘーゲル左派に分類されるエンゲルスという友人がいました。彼は若い頃、大学に進みたかったのですが叶いませんでした。小さな工場の経営者になった後、大学で勉強し革命の志を受け継いでいるマルクスに惚れ込み、経済的な支援を行いました。マルクスは生活に関してエンゲルスに依存しながら、亡命者としてイギリスで『資本論』を書き上げたのです。
●イギリスの経済学の中に潜んだ矛盾をついたマルクス
さて、その経済学(古典派経済学)に目を移すと、二人の重要な人物がいました。一人はアダム・スミスです。マルクスから見ても100年ほど前の人です。もう一人はデイヴィッド・リカードです。彼は実はユダヤ人なのです。大変頭の良い人でしたが、イギリスでは彼は移民だったので、なかなか出世することができず、結局株のトレーダーとなりました。証券取引所のようなところで、今でいう資産運用を手伝い、自分も財をなしました。40歳前後で引退してしまいますが、その後、自分の経験を生かして経済学を勉強し始めました。本を読むとでたらめばかりだったため、自分で書いたほうが早いと思い、経済学者となりました。この人も在野の人ですね。
アダム・スミスは今日、経済学者として...