●魂が賦活すれば、人口が減ろうが問題ない
執行 私の祖母もそうですが、ある程度ちゃんとした人はみんな、「自分がどう生き、どう死ぬか」がわかっているのです。そして自分の人生に正直だから、医者が「あと何カ月」と言えば受け入れる。友だちを呼んで、喧嘩していた人とは仲直りして、死んでいきました。医者に死を宣告されて慌てる人なんて、ほとんどいませんでした。
そこで慌てる人がいるとしたら、また、ここも私は言いたくはないのですが、それは「まったくくだらない人生を送った、下衆野郎」なのです。これはもう決まっています。
死にあたってジタバタするのは、例えば親との関係だと、とんでもない親不孝を繰り返してきた人です。だからまだ未練がある、世の中に。ちゃんと親にやるべきことをやり、子どもにもやるべきことをやり、自分もなんとか社会的にやってきた人は、ある程度、受け入れるのは当たり前です。これはなんでもないことで、だからちゃんとしてきたかどうかの証なのです。
―― 最期が。
執行 (画家の)戸嶋(靖昌)もそうです。戸嶋は自分が食えないけれど、芸術にすべてを捧げて生きてきたところ、69歳でがんを宣告されて、あと何カ月しかないと言われた。自分はもう死ぬとわかったら、最期の日まで芸術に捧げたいと治療を断り、私の肖像画を描き始めた。これも当たり前なんです。
―― 先日、戸嶋さんの芸術の話をしてもらいましたが、やはり素敵です。素敵な生き方をして、食えない。食えなくてもいいから、こう行くと。
執行 戸嶋が、現代の多くの人のように、食うために自分を曲げていたら、死にきれなかったと思います。ジタバタした。自分としては不燃焼なのです。
ところが戸嶋は自分としてできることを全部やったから、あとはもう死ぬ時間まで創意工夫して、やりたいことをやるだけです。これは偉いという話ではなく、私の祖母でも、誰でもそうです。主治医に死を宣告されて、「だったら、もう治療もいい」と。このまま病院に入院したら、お金もかかるし、家族にも迷惑をかける。このまま家で死ぬということで家で1カ月ぐらい過ごし、亡くなりました。みんなそうです。祖母だけでなく、近所で死んだおじいちゃん、おばあちゃんもそうです。私が死に立ち会った人は、だいたい同じで、みんな家で死ねたのです。
それと、いまの生き死にの話で思い出しましたが、今...