●「悪漢政」のような傑物がいなくなった
―― 先生は、「悪漢政」と付き合っていたぐらいですからね。
執行 もう親友ですよ。
―― あれは、すごい話です。
執行 人生最大の幸運の一つです。明治の、無法松みたいな人間と直に接することができたわけですから。三崎船舶の営業に入ったおかげで、できたことです。なぜ三崎船舶に入ったかというと、それまでいた大正海上を辞めたのです。
―― 三井系の。
執行 今の三井住友海上です。昔、大正海上と呼ばれていた。あの当時はまだ、会社を辞めるような奴は勘当されますから、僕は親父から家をおっぽり出されました。「おまえなんか、男じゃない」と。
―― 終身雇用制、全盛時代ですからね。
執行 「執行家の名折れ」ということで、本当に裸一貫で家を追い出されました。
―― 大正海上といえば、江戸時代でいえば「雄藩」ですから。
執行 「おまえ、精神鑑定を受けてこい」と言われ、「受けない」と言ったら「家を出ていけ」と。それで家を出されて、食えなくなってしまった。すると、(神奈川県の)三崎にあった中小企業で、三崎船舶というマグロ漁船や自衛隊の船を造っている会社に知り合いがいて、そこがドックハウスという揚げた船の船員を泊める宿舎を持っていた。そこにタダで住まわせてやると言うから、それで三崎船舶に入ったのです。給料だけでは、食えませんから。
―― なるほど、宿ができたと。
執行 給料は安かったけれど、生活がタダなのがありがたかった。城山荘という宿舎に入り、そこで生活をする中、今言ったパプアニューギニアの船員たちとも、みんな友だちになりました。あの当時、もう漁船員というとインドネシアかパプアニューギニアでした。
―― なるほど。
執行 まあ、あのころは楽しかった。いい思いもしました。僕がこういう性格で、喧嘩も強いから、みんなから尊敬されました。みんなが貢物を持ってくるのです。
―― 喧嘩が強いのは大事ですよね、そういう世界で。
執行 それはそうです。もう腕力だけですから。そして僕は腕力は誰にも負けなかったので、みんな宮本武蔵に会うみたいな感じで尊敬してくれました。
―― そこに悪漢政みたいな人もいた。
執行 悪漢政はマグロ漁船の親玉で、日本一の船頭でした。奥津水産という会社の社長で、その人と直に知り合いになって、僕は好かれた。これがまた楽しかったのです。悪漢政と知り合ったのは人生最大の幸運です。悪漢政から直に明治の男の生き方を、体感で学んだのです。
―― 体感で学べる人って、いないですよね。
執行 これはいないです。三崎船舶に350人いる社員の中で、僕しか相手ができませんでした。みんな怖くて。
―― 先生は10代のころに三島由紀夫に会って、文学論を戦わせています。「魂」の書も亡くなる直前にもらいました。この話もすごくいいですが、悪漢政と出会った20代の執行先生のほうが、おもしろいですね。
執行 劇的ですね。
―― しかも身近に見られた。
執行 僕も働いているし、悪漢政自体が『花と竜』に出てくる玉井金五郎や小倉の無法松といった人たちと、ほとんど同じですから。もう腕一本で来た。小学校も3年か4年までしか通ってない。あとは親父の手伝いで、漁師でずっとやってきた。
―― 小学校を3、4年で中退しても、その魂は強烈なものを持っているわけですね。
執行 これはすごいです。そして頭がいい。「頭がいい」なんていうレベルではありません。
―― 地頭が抜群に切れるのですね。
執行 ヘルマン・ヘッセのドイツ語の詩を僕が2回ドイツ語で読んだら、もう暗記してしまいました。ドイツ語なんて何も知らないのに、その場で暗記です。また、分厚い束で手形小切手を貰ったことがありましたが、そこに書かれた期日と割引比率を全部暗記していました。何月何日何時に、誰から貰った手形が、いくらの割引率で落ちるかを全部暗記している。
―― なるほど。
執行 すごい男です。天気予報は一回も外れたことがない。僕が知っている範囲でゼロです。
―― 強烈な感性も持っているのですね。
執行 ものすごいです。また喧嘩が強いんです。
―― 50年弱ぐらい前の日本には、そういうすごい人がいたわけですね。
執行 そういう人たちが日本を支えている。悪漢政みたいな人が。悪漢政は生き残りでしたが、ああいう人が「たばね」に何人もいたのだと思います。ああいう人を全部なくしてしまった社会が、今です。
―― 1950年代、60年代、70年代くらいまでは、いたわけですね。
執行 まだいた。
―― あの時代だったら、先生が言われることも……。
執行 わかる人がいた。だからあの当時は、まだ希望を持っていたのです。
●「おいしいもの、幸福、成功」などを拒絶せねば魂の賦活はない
執行 僕は自...