●理想の女性にふられようとも、一つとして自分を曲げなかった
執行 根本の問題は、そこが私はみんなと決定的に違うので見ていてわかるのですが、みんな「人に認められたがる」のです。人に認められるには、「みんなが認めてくれること」をしなければなりません。それで、やられてしまうのだと思うのです。
私は運良く、それだけがなかった。「他人からどう思われるか」という発想は、小中学生のころからまったくありません。だから好きなことができる。私はほとんど嫌われてきましたが、嫌われていること自体が嫌ではない。「嫌いたければ嫌えばいい」と思っていました。
一番苦しかったのは、20代のころの恋愛です。何回か相手に惚れきって、死ぬほど惚れたけれども、全部ふられた。あのときは苦しくて、相手に「少しは好かれたい」と思ったのは、そのときだけです。というのも20代で理想的な女性に出会ったのです。
ただ私が誇りにしているのは、相手に死ぬほど好かれたいけれど、そのために一つとして自分の意見を曲げなかったことです。その結果、ふられたわけです。このときは死のうかと思うぐらい悩みましたが、結局は誇りになっています。
―― 「忍ぶ恋」ですね。
執行 「忍ばされた」のです、そのときは(笑)。「忍ぶ恋」が武士道だと思っていますが、そのときは忍びたくなかった。その理想の人が出たときは。
―― でも曲げない。
執行 曲げない。そして「忍ばされた」。そういう感じです。
これは誰にでも言っているのですが、どんなに恵まれた家庭でも、実はみんな一人なのです。それがわからないと、愛も育めません。
―― 一人で生きていくという緊張感ですね。先生が、『脱人間論』に書かれている呻吟などですね。「俺たち、どうなっちゃうのかなあ」みたいな感じの。年がら年中、緊張感と呻吟の中で揺れ動く。でも、それがあるから勉強するようになる。
執行 当たり前です。
―― できるだけいい人に会うためには、どうするかなども考えるようになる。
執行 私はずっとそうで、今でもそうです。神藏さんが今日ここへ来る前にも「どう生きるべきか」「今自分が何をすべきか」「どう死ぬべきか」、そんな話を従業員にしていました。だから従業員と全然話が合いません(笑)。
―― 今の世の中がおかしくなっているのは、自分はほとんど楽をしているわけです。「なるべく...