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「平将門の乱」でなぜ負けたか…私営田領主と在地領主

「武士の誕生」の真実(3)2つの領主制と「平将門の乱」

関幸彦
日本大学文理学部史学科教授
情報・テキスト
平将門
出典:Wikimedia Commons
兵(つわもの)と武士を分ける最大の違いは地域との関わり方にある。「私営田領主」と呼ばれる兵は、領地を広く浅く支配する一方で、「在地領主」と呼ばれる武士は、その地域に土着し、狭く深い関係を築く。この2つの領主制の違いに「平将門の乱」敗北の原因があった。将門はなぜ負けてしまったのか。(全8話中第3話)
時間:07:38
収録日:2021/10/22
追加日:2021/12/29
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≪全文≫

●平将門はなぜ負けてしまったのか


 先ほど「兵」と「武士」の違いについて話をしました。兵段階は「源平藤橘」である一方で、住人化し、土着化し、名字を名乗る段階が「武士」であるという言い方をしました。

 当然ながら戦士としての側面は、兵と武士の両様が持っています。そして、領主という側面は両様が持ちつつも、兵段階の領主は「私営田領主」と呼ばれて、武士の段階の領主は「在地領主」と呼ばれます。2つの領主制の最大の違いは、薄く広いのか、あるいは狭く深いのかです。当然、薄く広くの場合の軍事力の動員力(量)と、狭く深い場合の軍事力の動員力(量)は違います。それはある意味では、量から質への転換ともいい換えることができます。

 例えば、10世紀の「平将門の乱」を事例にした場合、将門はご承知のように10世紀前半の939年に坂東で反乱を起こし、間もなく公権に反乱を起こしたかどによって追討軍が組織され、結果的には敗れ去ってしまいます。敗れ去った最大のポイントは、兵隊・兵士の動員力の差が大きかったことです。

 将門が勝利を収めたときは、私営田領主と呼ばれています。私営田領主が兵の段階である以上、広域的に支配している領域から大量の農民の兵力を動員します。

 しかし、農民は年中戦っているわけではなくて、主に農閑期に戦います。農閑期に戦いに集められた人間たちは、農繁期になると結局全て返さなければなりません。動員できる武力はある程度広いのですが、実質上将門のために死命を投げ売ってまでしっかりした主従制で戦う人間たちはそんなに多くありませんでした。将門が不利な状況になっていったりすればなおさらです。そんなこともあって、将門の乱においては動員する兵力、武力の差が影響して、将門は敗北を喫してしまいます。

 このあたりの部分は、将門の乱についての年表をある程度見ていただきながら考えていただくと分かりやすいと思います。

 いずれにしても、(平)将門や(藤原)純友など10世紀に登場する兵たちは、平や藤原と呼ばれるように、まだまだ地名を自分の名字に冠する段階ではありませんでした。それだけ地域との関わりが深くなかったことの証明でもあります。


●どのように兵から武士へと変わっていったのか


 そういう状況の中で、次第に兵が武士として大きく変貌を遂げていきます。どういう形でその変貌を遂げていくのかが次なる課題です。その次なる課題のときにまず考えてほしいのは、将門的な兵という存在がそもそも日本国の大きな歴史の中でどのようにして誕生したのかです。

 兵の誕生や登場のプロセスを明らかにして、その兵がやがて武士へと脱皮していくプロセスが明らかになれば、自ずと武士の誕生・登場の道筋が理解できます。従来はその兵という補助線、中間的媒介項をあまり考えずに、武士の登場や成立を性急に考え過ぎていました。そのため、10世紀の早い時期に武士と呼ばれる存在が登場したという議論がまことしやかに説かれていました。しかし、これまでにお話ししたように、近年ではまず武士の登場の前に兵という媒介的な役割があって、その兵が脱皮し、変容しながら武士となっていく部分をしっかりと頭の中に入れる必要があります。

 次なる課題として、この兵がまさしく古代国家の胎内の中で、どういう形で登場したのかについて議論をしていきたいと思います。
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