●養子であることがジョブズの思想に与えた影響
―― 桑原晃弥先生にジョブズの話を聞いています。桑原先生はこの『スティーブ・ジョブズ名語録』をはじめ、ジョブズについて、非常にたくさんの本をお書きになっています。お書きになるのに、関連の本やアメリカで出されている評伝なども含めて、相当いろいろなことを調べられていると思いますが、いかがでしょう。
桑原 そうです。ジョブズが亡くなった後は、本当にたくさんのジョブズ本が出ました。亡くなる前はそこまで多くはありませんでしたが、アメリカにおいて、やはりアップルは非常に象徴的な会社ということもあり、その頃のジョブズの物語も多く書かれています。その頃は非常に暴君的な書き方も多いのですが、そういった本が出ていて、日本では当然絶版になっています。あとは、当時は雑誌に結構書いていたので、そういうところを調べながらまとめていきました。亡くなった後は山のように本が出ました。
―― なるほど。長らくお書きになってきたものについて、またこの場でお話しいただきたいと思います。
最初にジョブズの略歴をお聞きします。先ほどの講義で3つに分けると分かりやすいということで、まずジョブズの略歴の第1期です。生まれてから30歳でアップルを追放されるまでの期間です。
桑原 ジョブズも含めて、GAFAの中には、例えばジェフ・ベゾスのように、養子だった人がいます。ジョブズにとっては、生まれが養子であることが、その後、禅に傾倒したり、東洋的な思想に感化されたりすることなどに影響していると思います。
幼い頃は小学校の問題児だった時期もあり、自分は一体何者なのか迷っていたと言っています。これには、自分が養子であることがある程度影響していると思います。
しかし、ある時期からジョブズにとってはそれが力になっていきます。小学校の3~4年のときに女性の先生と出会いました。その方がジョブズの才能を見抜いて、この子は非常に頭の良い子だということで、1年間、一生懸命勉強させてくれました。その時期、ジョブズは非常に一生懸命勉強して、そのときに教育の持つ力のすごさを認識します。そこからジョブズは変わっていき、それが後々、アップルを創業することにつながります。
ジョブズは、カリフォルニア州の学校の全てにパソコンを寄付しています。それは教育の力を信じているからです。子どもは幼いうちにきちんと方向を正してあげなければいけないと感じるようになったのにも、出生がかなり影響していると思います。
●エンジニアの天才ウォズニアックとの出会い、そしてアップルの設立
桑原 基本的には、学校時代のジョブズは割と一匹狼的で、あまり仲間とつるむことはなかったのですが、唯一親しくしていたのが、5歳年長のスティーブ・ウォズニアックです。ウォズニアックは完全にエンジニアの天才で、当時から有名な若者でした。ウォズニアックと二人で、電話を無料でかけるなどいろいろないたずらをしていました。ローマ法王にさえかけたことがあると言っているくらい、すごいものをつくっています。
そこからジョブズが学んだのは、ジョブズが持っているものを使って、新しいものをつくるプロデュースする力と、ウォズニアックの技術です。この二つがかみ合えばすごいことができることを知ったのは大きかったのです。これが後のアップルの創業につながっています。
―― 当時から、どちらかというとジョブズはやはりコンセプトをつくったり、デザインや使い方を提示したりする位置にいたのですね。
桑原 そうですね。ウォズニアックは本当に技術オタクで、ウォズニアック一人だったらアップルはまずありませんでした。もちろんジョブズ一人でもなかったと思います。それにはやはり子ども時代にいろいろなことをやってきた経験が生きていると思います。
―― その二人が出会って、いざアップルという会社をつくるまでの経緯はどういう流れになるのでしょうか。
桑原 まずは大学がオレゴン州のリード大学です。本来であれば、地元であるスタンフォードなどへ行くはずなのですが、どうもそういうところは自分は嫌だということでした。やはり親から離れたかったのです。親のいないところに行って、親のいない子どもであるかのように振る舞いたかったのです。そのときに、禅やヨガ、インドの宗教など、いろいろな精神的なものに出会っています。そこで迷いながらも何となく自分の生きる道を探っていました。そういう時代です。
そうして、1976年にウォズニアックとアップルを設立します。これは単純にウォズニアックが少しカッコいいマザーボードをつくって、小遣い稼ぎ程度に売ろうという話でした。そして、このとき...