●シリコンバレーを彩る創業者たち
「シリコンバレー物語 世界の覇者:その実像と今後」ということで、前回のシリーズではお話をしたのですが、そちらではシリコンバレーではどのようにGAFAのような、素晴らしい企業を生み出したのかという話を集中的にしました。
第二次大戦中に軍事産業が集積し始めたシリコンバレーは、半導体産業の発展とともに、その集積地となりました。そこへIT企業が参集しはじめ、スタンフォード大学が組織的にベンチャーの企業育成を図って、エコシステムを構築します。この役割は非常に大きく、すぐれた経営人材が育っていきました。さらに投資機会を求めてベンチャーキャピタルが集まります。こうして、技術と人材と資金の好循環が生まれたというところまでお話ししたわけです。
大きかったのは、コンピュータの計算能力の飛躍的発展を促進した「アルゴリズム革命」というものがあり、それを体現した未来志向のベンチャー企業がグローバルに市場開拓していったことです。このときに彼らがいち早く「プラットフォーマー」という新しいビジネスモデルを実現したということもあります。それで、GAFA+MNTとしてネットフリックス、テスラ、さらに最も古いマイクロソフトも含めた「GAFAMNT(ガファムント)」の時代が出現したということです。
そこで、まず皆さんと一緒に、GAFAMNTの創業者のプロファイルを群像として見てみたいのです。
●ビル・ゲイツとマイクロソフト
まず、何といっても、マイクロソフトをつくったビル・ゲイツ氏ですね。この人は、シリコンバレーを代表するIT巨人の草分けです。さらに開拓者でもあり、GAFAの偉大な先駆者と言えると思います。彼はガレージでPCのソフトフェア技術を開発し続け、とくにMS-DOSやWindowsなどのOSによって王国を築きます。
後続のベンチャー起業家にとってビル・ゲイツ氏は本当に大きな目標であり、偉大な先輩です。人柄もなかなかいい人で、ザッカーバーグ氏なども末の弟のような立場として大尊敬しているのだそうです。
近年になってインド人の人サティア・ナディラ氏に後継を譲りますが、ナディラ氏は非常に優秀な人で、超大企業の大胆な経営モデルの転換を実現します。それ以降ビル・ゲイツ氏はメリンダ夫人とともに、むしろ財団のほうに注力し、教育や医療、貧困撲滅に大きな貢献をしているのは、皆さんよくご存じの通りです。ここで簡単に彼のキャリアを振り返ってみたいと思います。
ビル・ゲイツ氏の本名は(ウィリアム・ヘンリー・)ゲイツ3世です。1955年生まれですから、現在66歳。小学校を非常に優秀な成績で卒業しますが、IQは160というとんでもない数字だったそうで、大学はハーバードに進みます。学生時代、(夏休みになると)ニューメキシコ州のアルバカーキにあったIT企業でBASICインタプリタの開発を手伝っていたといいます。アルバカーキは空軍基地のあるところで、私も訪れたことがあります。
1980年代になると、IBMがPCの開発に本格的に乗り出すことになり、(創業間もない)マイクロソフトにOSの開発を要請してきます。実は、この時点でマイクロソフトはまだOSをつくっておらず、他社の互換OSをIBM用に改良して納入します。これがやがてMS-DOSという名前で、他のPCメーカーにライセンス供給されるようになり、1985年にWindowsの最初の製品が出て、95年頃には、もう(Windows 95で)IT王国になっています。
●司法省との法廷闘争を経て「公共企業」へ
Windowsの市場シェアが非常に大きくなったもので、1998年、司法省はマイクロソフトを「独占的地位を利用して競争を阻害している」というかどで提訴します。ここで一番のポイントになったのは、OSの基本ソフトと閲覧ソフトの抱き合わせ販売でした。そうしなければ見ることもできないようにしていたのを司法省は見咎めて、相当もめました。一時はマイクロソフトに会社分割命令を出すという話も検討されたようで、決着までに6年かかります。
ビル・ゲイツ氏は、そこでずいぶんいろいろなことを学んだと思うのですが、大変人柄のいい人で、2000年にCEOをスティーブ・バルマー氏に譲ります。
その後、北京で2007年に大きな会議を開催しますが、そこで私は個人的にビル・ゲイツ氏と時間を共有したことがあります。
それまでのマイクロソフトはアメリカで「お客さま、いらっしゃい」と言っていましたが、この頃から中国とインドに出て行こうということで、その最初の大きな会議が中国で行われたわけです。そのマイクロソフト主催北京会議ではスピーカーが20人ほどいて、私はその一人として招待されたのです。
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