●日本の教養離れと「教養人」のあり方
リベラルアーツは、古代ギリシャの哲学を習得する基礎で、法学や神学ではない、哲学の元になる7つの基本だといわれています。それはそうだと思います。
一方、テンミニッツTVが編集した『現代のリベラルアーツとは何か』(イマジニア)という本では、「よりよく生きるための『知の力』」という副題がついています。「この情報爆発の時代、めまぐるしく社会状況が変化する時代に『よりよく生きるため』には、教養的な知が必要であり、それは武器になる」と書いてあります。これもそうだと思います。
では、1990年代以降の日本の教養に対する批判的反応というものは何だったのでしょう。多分、そういう教養は「すぐには役に立たず、即戦力にならない。だから、もっと役に立つことに集中しましょう」といわれていました。教養学部などが廃止になった大きな理由は、そこだったと思います。結構、近視眼的な見方です。
しかし、一方で教養のある人、教養学部の先生たちのような、いわゆる「教養人」が明治以来日本でどのように描かれてきたか。結構ペダンティック(衒学的)で、普通の人が気づかない観点からものを批評することはできるかもしれないし、多分しているのでしょうが、それはたいてい机上の空論による批評で、それに終わってしまうから、それは自己満足であり、本当に彼らが解決したことはないのではないか。という批判が多かったと思います。
「即、金にならないからいけない」というのは、私にとっては論外で、学問に対する理解もリスペクトもない意見だと思います。しかし、明治以来のいわゆる教養人が世間から遊離していたというのは確かに事実の部分があり、これは問題だと思います。
●興味を広げ、知を構造化する
私の考えですが、広くいろいろなことをある程度知っている必要があります。これは弾込め(たまごめ)といいますか、(自分から)出してくるものを考える材料としてたくさん持っていないといけないでしょうという意味で、まず広い興味が必要です。
広く世界に対して興味がないといけなくて、その興味に従って、いろいろなものを読んでみたり、人と話してみたりする。本や会話、つながりに対してある種、最初から貪欲でないと、根が開かれることはないのではないか。石井先生が言われる「限界」を知るには、自分の貯めているものがどのぐらいあって、さらに外側には何があるのかということを知っていないといけないのではないかと思います。
それから、貯め込んできたいろいろな知識や興味、人との会話で気づかされたことなどを、ただ袋にどんどこどんどこ入れていくだけではなく、構造化しないといけません。それには、いつも立方体のように軸が3軸ぐらいあるものを念頭に置いて、「この知識はこの部分」「こちらはこの部分」「これとこれはこういう関係にある」というようなことが、自分の頭の中で想定できていたらいいわけです。
もちろん全部の箱が埋まることなど、ないわけです。しかし、どんなことを振られたり聞かれたりしても、知識の立方体の中のこの辺のことかな、と当たりがつく。そうすると、自分はそこがすっぽり抜けているとしても、こことここは知っているから、次はこちらの方向に話がいくかもしれないと予想がつく。それにより、意見が言えたり、疑問を呈したりできることが、(教養の)真髄かと感じます。
●ケンブリッジ大学での経験と構造と想像力の必要性
私は、(かつてイギリスの)ケンブリッジ大学のカレッジの夕食の席に着くたび、毎日本当に困惑しました。カレッジにはいろいろな人が集まっていて、ご飯を食べるときに隣り合わせた知らない人とのあいだで話が始まります。エンジニアリング、文学、王政復古の歴史学、物理など、(専門を持つ)いろいろな人がいます。
「あなたは何をやっているのか」と聞かれて、「鹿の行動生態学です」と答えると、「鹿の行動生態学って、何なの」と言われる。一方で「量子力学の研究は、今どこまで進んでいるのか」のような話もしながら食べないといけない。ですから、どんなことを振られても、一応自分なりの意見や疑問を言えないとなりません。
そのためには、自分の構造を持っていないといけません。そこでは、知識を構造化する軸となる価値観とともに、既存の知識を単に総合するのではなく、その先、例えば自分は何を見たいと思うか、自分は何を知らないと思うか、そこが埋まると何ができると思うか、これらを想像するイマジネーションも必要になります。
そういうことは、単に一部の教養人だけのやるべきことではな...