●ロシアによる核使用の脅威と民主主義国の条件
内山 皆さん、こんにちは。ロシアのプーチン大統領とその後のウクライナ戦争、あるいは日本との関わりなどについて、いろいろと触れてきたわけですが、日本国民の一番の関心事、懸念材料というのは、世界の人々と同じように、プーチン氏がかつて戦術核の使用を匂わせたことです。つまり、核恫喝が恫喝だけで終わるのかです。あるいは、実際に戦術核が使われるのかというのは、大変大きな問題点です。
これは特に、原爆を使われて多くの被害者を出した日本国民が、揺るがせにできない点です。同時に、世界中にその核というものの使用の怖さというものが、理念や言葉だけではなくて、現実あるいは実際の事実として起こり得るということを意味しているのですね。そうなった場合、今後の国際秩序というのは、どうなるのか、どういう影響を及ぼすのかというのは、大変重要な問題です。
基本的に民主主義国家同士は戦わないとよくいわれます。これは20世紀にフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man)という中で強調した見方です。もちろん、これの揚げ足を取って、「いや、第一次英米戦争と第二次英米戦争、つまり独立戦争と第二次英米戦争で、実際はカナダを主力とする軍隊がワシントンを陥れて、ホワイトハウスを焼いた」と。これは密かにカナダ人が、心の中で何か自負している独特の経験なのです。
実際はカナダなのですが、法的にはイギリスで、五大湖においても海戦が行われました。だから、民主主義国家間でも戦争があったではないかという混ぜっ返しになったのです。フクヤマもおそらく言いたかったことで、そして、私もフクヤマのほうに寄せて考えるのは、確立された20世紀の自由と民主主義を価値観の基本とする国家が民主主義国家だとすれば、民主主義国家はたしかに互いが戦ったということはないということです。ほぼないと言ってよろしいわけです。
したがって、ここから引き出されるのは、民主主義国家の間では、核戦争、核を使用するということはあり得ない、核による恫喝もしない、ということ。これは基本的に重要な民主主義国家の資格要件だろうと私は思います。核を使うということをあえて発言した、プーチン氏は、やはりそういう意味でも民主主義国家のリーダーとしての資質はない。そもそもG8として、G7プラス1になる資格がないということが、ここでも露呈されているわけです。
ですから、このことを逆説的に捉えれば、民主主義国家ではない国は、必要な場合には核を使うということはあり得るのです。したがって、プーチン氏が戦術核を使うことについては、その危険性や可能性が排除できないということは、認識しておく必要があると思います。
しかし、可能性を排除できないということは、イコールで使うということではありません。そしてプーチン氏も、それを使うときには、おそらくロシアという国家そのものの存在や、あるいはプーチン氏という人物の権力的基盤や、彼の物理的生命や政治的生命を含めて、彼自身が危機に追い込まれていきます。そういうものがアルマゲドン的に、彼の文明論、あるいはロシアナショナリズムの価値観などと結びついたときに、核の使用はないわけでないのです。
しかし、それは、プーチン氏にとっての最終的な選択であって、それがどれだけ多くの犠牲をロシアに強いるかです。ロシアは取り返しのつかないような犠牲をただちに払うことになります。ロシア愛国者であり、ロシアナショナリズムの徒であるプーチン氏が、自らの母国であるロシアの壊滅を覚悟で、本当に使えるかどうか、ということが、まさにジレンマであるということです。
●中露に対するNATOを中心とした対抗ネットワーク
核の所有と使用というのは、常にこういうジレンマが最終的につきまとうということを見ておかなければならないのです。プーチン氏に核の使用を踏みとどまらせる大きな要因は、NATOの結束力です。そして、NATOがヨーロッパだけではなくて、ストルテンベルグ事務総長が日本を訪れて、岸田文雄総理と会見し、NATOは東アジアの安全保障に対しても十分な関心を払うと。そして、アジア太平洋の安全保障と、ヨーロッパ大西洋の安全保障はつながっているという主旨の発言をしたばかりです。
したがって、このNATOの結束力プラス、民主主義の力としてこれを他の地域にも広げたいところであり、理念的には広げる用意はあります。理念と実態には、また多少の距離やギャップがありますから、これはただちにイコールだとするわけにはいきませんが、ともかく、大事な指摘ではなかったかと思います。ここで重要なことは、中国やロシアに対して、単にロシアに対する対抗ネットワークがヨーロッパです。
そして、中国に関する対抗...