戦国七雄の中で最終的に中国を統一した秦は、なぜ強大な国へと成長したのか。秦では恵文王の時代に王号を用いはじめ、それに伴い改元方法も「踰年称元法」へと変化した。また、他国と競いあって独自に王陵の作り方も変えていった。さらに重要なのは、孝公の時代に行われた「商鞅(しょうおう)の変法」である。分異の令、軍功爵制、度量衡の統一、咸陽への遷都など徹底した国内改革を行っていくのだが、それこそが後の始皇帝による天下統一へとつながる秦の強さの源泉となっていく。(全9話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●王号を称することで変わる改元の方法と王陵の作り方
―― では、続きまして、戦国七雄の中で最終的にはそれらを統一していく秦という国がなぜあそこまで強大な国になっていったのか、そのことについて教えていただきたいと思います。
この一覧表は、秦の(歴代の)王様――王を名乗った初代の恵文王と、その前の最後の25代の公である孝公から始皇帝までの王――が並んでいる図です。先ほどもお話に出ました孝公ですが、第25代の公ということになっていて、次の恵文王が途中で王号を名乗るということですね。ここは周王朝の衰退とともにそれぞれが王号を名乗り始めるというタイミングになるわけですか。
鶴間 恵文王は、前半は恵文君ともいうのですけれど、途中で王号を称します。これは秦だけではなく、東方の魏もそうです。遠方の楚はもともと王号を称していたのですけれど、他の国々は周王を立てなければいけない。自分たちはあくまで諸侯だと。ですから、周王がいての諸侯(という位置づけでした)。ところが、周王の権威がなくなってくると、それぞれが王号を僭称する。(つまり)矩(のり)を踰(こ)えて自分たちが王号を称するわけです。
これ(スライド)を見てすごく面白いのは、恵文、秦でいうと恵文君から恵文王になるところです。途中で改元するのです。
年号のことを申し上げますと、この時代はまだ、いわゆる元号制ではなくて、王が即位したらすぐ元年、2年、3年ということになる。これを「立年称元法」というのですけれど、年を待たずに(改元するということで)、日本の天皇制、元号制がそうですね。天皇が亡くなったら翌日から新しい年号に変わる。(中国の)戦国(時代)も初期はそうだったのです。
ところが、ある時から正月まで待って元年、2年というようになるのです。これを「踰年称元法」といいます。年を越えて称元するということです。どうやら王号を称するとみんな立年称元法から踰年称元法に変えていくのです。
これがすごく大事なことで、(どの国も)みんな一斉に改元を正月まで待つのです。(つまり)先代の王が亡くなっても、まだその時代(元号)は正月まで続き、正月になって晴れて元年、2年になるのです。これが前漢の武帝(の時代)になると、建元何年という、いわゆる元号制になりますけれど、この当時はそういう時代でし...