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なぜ「教養」が必要なのか?
2014年5月に出版された『池上彰のやさしい教養講座』の冒頭で、著者の池上彰氏は「このところ“教養”がちょっとしたブームの様相を呈しています」と述べています。
この池上氏の言葉に拍車が掛かるように、例えば2009年からの5年間では3校であった「教養」学部の新設が、2014年から2018年の5年間で11校と増えています。
また「教養」関連本も多数出版され、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』や『世界でいちばんやさしい 教養の教科書』といったベストセラーも誕生するなど、近年「教養」に関する状況は盛り上がりを見せています。
もっとも、英語のcultureは一般的には“文化”と訳されて使われています。しかし、キケロの名言「Cultura animi philosophia est(精神を耕すことが哲学である)」や、その言葉を受けて中世で広く用いられた言葉・概念としての「cultura mentis(心の耕作・養育)」の場合、「精神的教化・教育」の意義としての「教養」を示すこととなります。
一方、英語の「liberal arts」(以下「リベラルアーツ」)も、現代日本において「教養」として認知されています(ただし、「liberal arts」は「自由七科」「自由学芸」とも訳されています)。
「リベラルアーツ」の思想的源流は、古代ギリシアの自由人がもつべきとされた「全面的教養(paideia;パイデイア)」という考え方にさかのぼります。「全面的教養」は、特定の職業や専門の枠を超えて、広く人間として社会人としてもつべき“自由のための知識技能”を指します。即時的に直接生活に役立てるためではなく、精神を深め豊かにすることや人生をより意義深くする観点から主張され、育まれてきました。
ローマ末期の4~5世紀に今日の「リベラルアーツ」の大本となる、言語三科(文法、修辞学、弁証法)と数学四科(算術、幾何、音楽、天文学)七科目に区分され、確立します。以後、「リベラルアーツ」は実利性・職業性・専門性を志向する学問と対立する科目として尊重され、14世紀から16世紀のルネサンス期の人文主義、18世紀の新人文主義に復活し発展していきます。
「日本のリベラル・アーツの歩みとこれから」において、科学史が専門で旧制第一高等学校の教育にも詳しい東京大学大学院総合文化研究科教授の岡本拓司氏は、人間行動進化学・行動生態学・進化心理学が専門で東京大学名誉教授の長谷川寿一氏の問いに答えるかたちで、当時の学問としての「教養」について、以下のように述べています。
「帝国大学や旧制高校の理念をつくり、カリキュラムにも口を出した文部大臣の森有礼は、条約改正問題などで、西洋が圧倒的な力をもつ世界で生き延びようとすると、西洋流の“教養”が欠如していることが国家にとって致命的な傷になりうることを理解していたものと思います。<中略>国家を守って何とか生き延びるためには教養が必要であり、またその教養が弱くとも小さくとも肩肘張って独立した国民国家を守り続けることを要請したともいえます。<中略>いざとなればどこかの国が守ってくれるような環境ではありませんでしたから、国全体が同世代人口の0.5パーセントほどの人々(旧制高校まで進んだ比率)に命運を託し、託されたほうは教養を身につけるのにも必死であったと考えると、教養が決して暇学問と同義ではなかった時代のことが少し理解できるように思います」
一方で今日的な意義での「教養」が広く用いられるようになったのは、先述したように大正期以降とも言われています。明治期の実利主義的、立身出世的、政治的な「修養」の概念に対して、大正期には新しい人間形成のあり方を意味する言葉として「教養」が用いられ始めました。
その結果「教養」には、内面的、精神的、反政治的、人格主義的などのニュアンスが強く帯びさせられるようになります。さらに大正中期の文化主義思潮の中で“教養主義”の思潮も誕生し、広まっていきました。長谷川氏は“教養主義”のことを、「長く日本の知的エリートの規範であり続けた」と述べています。
しかし、第2次世界大戦後の1947年、学問としての「教養」は大きな転換点をむかえます。まずは学校教育法によって旧制高等学校(3年間)と旧制大学(標準3年間)が4年制の新制大学として統合されたことにより、学習期間が6年から4年に圧縮されます。そしてアメリカ占領軍の指導の下に制定された新制大学制度において、一般教育科目にアメリカの大学の「リベラルアーツ」教育がモデルとなりました。
さらに1991年2月に大学審議会により提出された『大学教育の改善について』答申を受けて同年6月に大学設置基準が改正されたことにより、一般教育と専門教育の区分、一般教育内の科目区分(人文・社会・自然・外圏語・保健体育)が廃止され、各大学は4年間の学部教育を自由に編成できるようになりました。
この結果、ほとんどの大学で一般教養課程を担ってきた教養部が改組・解体され、学部教育は専門教育を中心とした編成へと変わっていきました。そして5年後には、国立大学の教養部・一般教育課程がほぼ姿を消すことになりました。
この変化は、大学審議会が期待していた方向と異なるものであったため、大学審議会は1998年の『21世紀の大学像と今後の改革方策について』の答申において、「教養教育が軽視されているのではないかとの危惧がある」と指摘し、「教養教育の重視、教養教育と専門教育の有機的連携の確保」が重要となると展望しました。しかし、2008年の時点で「一度解体された教養教育はなかなか立ち直れない状況に変わりはない」と、長谷川氏は述べています。
このように、明治期の「修養」に近いような硬い「教養」や、大正期の“教養主義”的な柔らかい「教養」の盛り上がりを経てきたにも関わらず、昭和期から少なくとも平成中期の間は「実用・有用」が偏重されるあまり、「教養」がないがしろにされてきた時期だったように思われます。
思想家・武道家で神戸女学院大学名誉教授内田樹氏は『死と身体』で、「教養の価値がここまで暴落したのは近代以降はじめてのことではないでしょうか。それは端的には“教養”と“雑学”の取り違えというかたちで現象しているように思います」と警鐘を鳴らしています。さらに続けて、以下のようにも述べています。
「教義とは、端的に言えば、ある事実を、いくつかの異なる側面から眺めてみることができるということです。あるいは、ある事実を、それとは無関係に見えるような別の事実との“関係性”のうちに置き直すカと言い換えることもできます。<中略>雑学はいくらあっても“邪魔”になんかなりません。それは自分がすでに知っていることを水平方向に拡大しただけのものですから、自分の政治的信念にも信仰にも美意識にも道徳観にも決して抵触しない。でも、いくら容量を増やしても、それはただの巨大化した“おもちゃ箱”というにすぎません。<中略>教養はそれとは違います。教養はあればあるほど収拾がつかなくなるものです。というのは、教養は自分自身知のシステムの絶えざる“書き換え”“ヴァージョンアップ”を要求してくるからです。それはつねに限界をはみ出ようとします。たえず未知の領域に入り込んでいこうとします。教養は人間が静かに自足することを許してくれません」
また、リベラルアーツカレッジの一つである立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏は10MTVオピニオン"出口治明が語る「教養と日本の未来」(2)「人・本・旅」"で教養の重要性を述べ、「知識×考える力=教養」であり、「イノベーションとも言い換えることができる」現代の日本に求められる能力であると説きます。
「“教養”とは何でしょうか。講演では聴衆の皆さんに次の質問を投げ掛けます。“おいしいご飯とまずいご飯、どちらを食べたいですか?”全員、美味しいご飯に手が上がります。美味しいご飯を因数分解するとどうなるでしょう。いろいろな材料を集めて上手にクッキングすればおいしいご飯が食べられます。“いろいろな材料×上手に調理をする”ことでおいしいご飯になると思います。<中略>同様に因数分解したらどうなるでしょうか。いろいろな材料に匹敵するのがいろいろな知識だと思います。またクッキングに対応するのは、考える力だと思います。いろいろなことを知っていることに、自分の頭、言葉で考える力を掛け合わせると、おいしい生活、おいしい人生につながると思います。言い換えれば、“知識×考える力”が教養であり、あるいはイノベーション、リテラシーといってもいいでしょう」
さらに、慶應義塾大学名誉教授の島田晴雄氏は10MTVオピニオン"「島田村塾」リベラルアーツ特講(1)生き抜くためのリベラルアーツ"において、日本のリベラルアーツ教育の欠点を「目的意識の欠如と各分野を総合的に消化できる人材の不足」と憂えています。そして、自身が主宰する30代前後の若手の経営者たちと世界で仕事をする際の「バックグラウンド」としてのリベラルアーツを勉強する「島田村塾」について、「目的がかなりはっきりしています」と断言し、次のようにも述べています。
「今、多くの大学が、きらびやかな教授陣を並べて“リベラルアーツです”と言っていることを、私は短冊型の“七夕方式”と呼んでいるのです。<中略>全ての短冊を自分で消化して“こうだ”という仮説は、あの中からは出てきません。島田村塾は、あのような七夕方式ではなくて、あくまで問題意識が先なのです。<中略>やはり一人で全部一回掌握する人がいないと、若い人は理解できないと思います。それが議論の元になると思います」
三名の「教養」への言葉からは、「教養」が固定化された過去の知識の寄せ集めや部分といった状態ではなく、積極的かつ能動的であり、絶えず変化とよりよい関係を欲し続け、未来性をもち革新を希求し続ける進行形の状況であることが伝わってきます。またそれゆえに、「教養」は常に充足することのない主体者の不断の取り組みが不可欠である厳しい行いの連続でもありますが、同時に一生涯を通してやりがいをもてる行為であるともいえるのではないでしょうか。
しかし、18世紀半ばイギリスで始まった産業革命により、状況は劇的に変化します。技術革新が生産性の格段の向上をもたらし、先進諸国の所得水準はわずか200年で10~20倍に達します。それにより所得以外の指標においても、例えば平均寿命が大幅に伸びたり、栄養状況を示す平均身長も高くなったりと、大きな変化を示すことにつながります。
産業革命以後の変化について、作家の橘玲氏は『もっと言ってはいけない』において「私たちは学校で習った産業革命を、ローマ帝国の興亡とか、三国志のロマンとか、織田信長の天下取りとおなじ歴史のエピソードのひとつと考えているが、これはとんでもない誤解だ。産業革命以前と以後で、世界はまったく異なるものに変わってしまった」と述べています。そのような産業革命以後から現在は高度化した知識社会であり、知識のある人が社会的・経済的な成功をもたらしやすい、ある意味知識偏重の社会でした。
しかし、未来学者のレイ・カーツワイル氏が『ポスト・ヒューマン誕生』で、2045年頃に科学技術が発達して現在の科学技術や理論が通用しなくなる地点「シンギュラリティ(技術的特異点)」を予測したように、次なる産業革命以上のパラダイムシフトでは、知識があるだけではどうしようもない世界になっている可能性が高くなっています。
次回のシンギュラリティ以後の世界がどんな世界になっているのか、また現代の知識に変わるどんな価値観や能力が社会的優位になっているのかは未知の領域です。しかし、古代から何度も蘇ってきた「教養」に、また「教養」をめぐる能動的かつイノベーティブに“知と何か”の関係を結ぶことを希求しつづける能力に、ヒントがあるように思います。
「教養」は毎日をよりよく生きるためにも有効ですが、それだけではなく、来たるべきときにむけて「教養」を見直し自身に取り入れていくことこそが、やはり今こそ必要なのではないでしょうか。
この池上氏の言葉に拍車が掛かるように、例えば2009年からの5年間では3校であった「教養」学部の新設が、2014年から2018年の5年間で11校と増えています。
また「教養」関連本も多数出版され、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』や『世界でいちばんやさしい 教養の教科書』といったベストセラーも誕生するなど、近年「教養」に関する状況は盛り上がりを見せています。
“心の耕作”かつ“自由のための知識技能”
「教養」には、字義通り「教え育てること」といった意味もありますが、現代では大正期以降に広く使われるようになった、英語のculture(耕作・養育)やドイツ語のBildung(形成・教化)の訳語としての「人間の自己形成の営みやその成果」「学問、知識などによって養われた品位」「教育、勉学などによって蓄えられた能力、知識」「文化に関する広い知識」といった意味で捉えられることが多いように思います。もっとも、英語のcultureは一般的には“文化”と訳されて使われています。しかし、キケロの名言「Cultura animi philosophia est(精神を耕すことが哲学である)」や、その言葉を受けて中世で広く用いられた言葉・概念としての「cultura mentis(心の耕作・養育)」の場合、「精神的教化・教育」の意義としての「教養」を示すこととなります。
一方、英語の「liberal arts」(以下「リベラルアーツ」)も、現代日本において「教養」として認知されています(ただし、「liberal arts」は「自由七科」「自由学芸」とも訳されています)。
「リベラルアーツ」の思想的源流は、古代ギリシアの自由人がもつべきとされた「全面的教養(paideia;パイデイア)」という考え方にさかのぼります。「全面的教養」は、特定の職業や専門の枠を超えて、広く人間として社会人としてもつべき“自由のための知識技能”を指します。即時的に直接生活に役立てるためではなく、精神を深め豊かにすることや人生をより意義深くする観点から主張され、育まれてきました。
ローマ末期の4~5世紀に今日の「リベラルアーツ」の大本となる、言語三科(文法、修辞学、弁証法)と数学四科(算術、幾何、音楽、天文学)七科目に区分され、確立します。以後、「リベラルアーツ」は実利性・職業性・専門性を志向する学問と対立する科目として尊重され、14世紀から16世紀のルネサンス期の人文主義、18世紀の新人文主義に復活し発展していきます。
「修養」「教養」から「実用・有用」まで
明治期に西洋文化が流入されるとともに、西洋流の「教養」の概念も日本に入ってきました。「日本のリベラル・アーツの歩みとこれから」において、科学史が専門で旧制第一高等学校の教育にも詳しい東京大学大学院総合文化研究科教授の岡本拓司氏は、人間行動進化学・行動生態学・進化心理学が専門で東京大学名誉教授の長谷川寿一氏の問いに答えるかたちで、当時の学問としての「教養」について、以下のように述べています。
「帝国大学や旧制高校の理念をつくり、カリキュラムにも口を出した文部大臣の森有礼は、条約改正問題などで、西洋が圧倒的な力をもつ世界で生き延びようとすると、西洋流の“教養”が欠如していることが国家にとって致命的な傷になりうることを理解していたものと思います。<中略>国家を守って何とか生き延びるためには教養が必要であり、またその教養が弱くとも小さくとも肩肘張って独立した国民国家を守り続けることを要請したともいえます。<中略>いざとなればどこかの国が守ってくれるような環境ではありませんでしたから、国全体が同世代人口の0.5パーセントほどの人々(旧制高校まで進んだ比率)に命運を託し、託されたほうは教養を身につけるのにも必死であったと考えると、教養が決して暇学問と同義ではなかった時代のことが少し理解できるように思います」
一方で今日的な意義での「教養」が広く用いられるようになったのは、先述したように大正期以降とも言われています。明治期の実利主義的、立身出世的、政治的な「修養」の概念に対して、大正期には新しい人間形成のあり方を意味する言葉として「教養」が用いられ始めました。
その結果「教養」には、内面的、精神的、反政治的、人格主義的などのニュアンスが強く帯びさせられるようになります。さらに大正中期の文化主義思潮の中で“教養主義”の思潮も誕生し、広まっていきました。長谷川氏は“教養主義”のことを、「長く日本の知的エリートの規範であり続けた」と述べています。
しかし、第2次世界大戦後の1947年、学問としての「教養」は大きな転換点をむかえます。まずは学校教育法によって旧制高等学校(3年間)と旧制大学(標準3年間)が4年制の新制大学として統合されたことにより、学習期間が6年から4年に圧縮されます。そしてアメリカ占領軍の指導の下に制定された新制大学制度において、一般教育科目にアメリカの大学の「リベラルアーツ」教育がモデルとなりました。
さらに1991年2月に大学審議会により提出された『大学教育の改善について』答申を受けて同年6月に大学設置基準が改正されたことにより、一般教育と専門教育の区分、一般教育内の科目区分(人文・社会・自然・外圏語・保健体育)が廃止され、各大学は4年間の学部教育を自由に編成できるようになりました。
この結果、ほとんどの大学で一般教養課程を担ってきた教養部が改組・解体され、学部教育は専門教育を中心とした編成へと変わっていきました。そして5年後には、国立大学の教養部・一般教育課程がほぼ姿を消すことになりました。
この変化は、大学審議会が期待していた方向と異なるものであったため、大学審議会は1998年の『21世紀の大学像と今後の改革方策について』の答申において、「教養教育が軽視されているのではないかとの危惧がある」と指摘し、「教養教育の重視、教養教育と専門教育の有機的連携の確保」が重要となると展望しました。しかし、2008年の時点で「一度解体された教養教育はなかなか立ち直れない状況に変わりはない」と、長谷川氏は述べています。
このように、明治期の「修養」に近いような硬い「教養」や、大正期の“教養主義”的な柔らかい「教養」の盛り上がりを経てきたにも関わらず、昭和期から少なくとも平成中期の間は「実用・有用」が偏重されるあまり、「教養」がないがしろにされてきた時期だったように思われます。
「教養」は常に主体性と革新を求める
しかし、冒頭で述べたように、近年は「教養」が活気づいています。ただし、明治期や大正期と違う今日における「教養」の意義や必要性が、いまいち見えにくくなっているように思います。思想家・武道家で神戸女学院大学名誉教授内田樹氏は『死と身体』で、「教養の価値がここまで暴落したのは近代以降はじめてのことではないでしょうか。それは端的には“教養”と“雑学”の取り違えというかたちで現象しているように思います」と警鐘を鳴らしています。さらに続けて、以下のようにも述べています。
「教義とは、端的に言えば、ある事実を、いくつかの異なる側面から眺めてみることができるということです。あるいは、ある事実を、それとは無関係に見えるような別の事実との“関係性”のうちに置き直すカと言い換えることもできます。<中略>雑学はいくらあっても“邪魔”になんかなりません。それは自分がすでに知っていることを水平方向に拡大しただけのものですから、自分の政治的信念にも信仰にも美意識にも道徳観にも決して抵触しない。でも、いくら容量を増やしても、それはただの巨大化した“おもちゃ箱”というにすぎません。<中略>教養はそれとは違います。教養はあればあるほど収拾がつかなくなるものです。というのは、教養は自分自身知のシステムの絶えざる“書き換え”“ヴァージョンアップ”を要求してくるからです。それはつねに限界をはみ出ようとします。たえず未知の領域に入り込んでいこうとします。教養は人間が静かに自足することを許してくれません」
また、リベラルアーツカレッジの一つである立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏は10MTVオピニオン"出口治明が語る「教養と日本の未来」(2)「人・本・旅」"で教養の重要性を述べ、「知識×考える力=教養」であり、「イノベーションとも言い換えることができる」現代の日本に求められる能力であると説きます。
「“教養”とは何でしょうか。講演では聴衆の皆さんに次の質問を投げ掛けます。“おいしいご飯とまずいご飯、どちらを食べたいですか?”全員、美味しいご飯に手が上がります。美味しいご飯を因数分解するとどうなるでしょう。いろいろな材料を集めて上手にクッキングすればおいしいご飯が食べられます。“いろいろな材料×上手に調理をする”ことでおいしいご飯になると思います。<中略>同様に因数分解したらどうなるでしょうか。いろいろな材料に匹敵するのがいろいろな知識だと思います。またクッキングに対応するのは、考える力だと思います。いろいろなことを知っていることに、自分の頭、言葉で考える力を掛け合わせると、おいしい生活、おいしい人生につながると思います。言い換えれば、“知識×考える力”が教養であり、あるいはイノベーション、リテラシーといってもいいでしょう」
さらに、慶應義塾大学名誉教授の島田晴雄氏は10MTVオピニオン"「島田村塾」リベラルアーツ特講(1)生き抜くためのリベラルアーツ"において、日本のリベラルアーツ教育の欠点を「目的意識の欠如と各分野を総合的に消化できる人材の不足」と憂えています。そして、自身が主宰する30代前後の若手の経営者たちと世界で仕事をする際の「バックグラウンド」としてのリベラルアーツを勉強する「島田村塾」について、「目的がかなりはっきりしています」と断言し、次のようにも述べています。
「今、多くの大学が、きらびやかな教授陣を並べて“リベラルアーツです”と言っていることを、私は短冊型の“七夕方式”と呼んでいるのです。<中略>全ての短冊を自分で消化して“こうだ”という仮説は、あの中からは出てきません。島田村塾は、あのような七夕方式ではなくて、あくまで問題意識が先なのです。<中略>やはり一人で全部一回掌握する人がいないと、若い人は理解できないと思います。それが議論の元になると思います」
三名の「教養」への言葉からは、「教養」が固定化された過去の知識の寄せ集めや部分といった状態ではなく、積極的かつ能動的であり、絶えず変化とよりよい関係を欲し続け、未来性をもち革新を希求し続ける進行形の状況であることが伝わってきます。またそれゆえに、「教養」は常に充足することのない主体者の不断の取り組みが不可欠である厳しい行いの連続でもありますが、同時に一生涯を通してやりがいをもてる行為であるともいえるのではないでしょうか。
「教養」に潜む“新時代の優位能力”の可能性
経済史家のグレゴリー・クラーク氏は『10万年の世界経済史 上・下』において、過去から現在までの一人あたりの所得推移を推計し、1800年当時の中世ヨーロッパの平均的な生活水準は、紀元前1000年のギリシア・ローマ時代だけでなく紀元前10万年の石器時代と比べてもほとんど変わっていないという説を発表しました。しかし、18世紀半ばイギリスで始まった産業革命により、状況は劇的に変化します。技術革新が生産性の格段の向上をもたらし、先進諸国の所得水準はわずか200年で10~20倍に達します。それにより所得以外の指標においても、例えば平均寿命が大幅に伸びたり、栄養状況を示す平均身長も高くなったりと、大きな変化を示すことにつながります。
産業革命以後の変化について、作家の橘玲氏は『もっと言ってはいけない』において「私たちは学校で習った産業革命を、ローマ帝国の興亡とか、三国志のロマンとか、織田信長の天下取りとおなじ歴史のエピソードのひとつと考えているが、これはとんでもない誤解だ。産業革命以前と以後で、世界はまったく異なるものに変わってしまった」と述べています。そのような産業革命以後から現在は高度化した知識社会であり、知識のある人が社会的・経済的な成功をもたらしやすい、ある意味知識偏重の社会でした。
しかし、未来学者のレイ・カーツワイル氏が『ポスト・ヒューマン誕生』で、2045年頃に科学技術が発達して現在の科学技術や理論が通用しなくなる地点「シンギュラリティ(技術的特異点)」を予測したように、次なる産業革命以上のパラダイムシフトでは、知識があるだけではどうしようもない世界になっている可能性が高くなっています。
次回のシンギュラリティ以後の世界がどんな世界になっているのか、また現代の知識に変わるどんな価値観や能力が社会的優位になっているのかは未知の領域です。しかし、古代から何度も蘇ってきた「教養」に、また「教養」をめぐる能動的かつイノベーティブに“知と何か”の関係を結ぶことを希求しつづける能力に、ヒントがあるように思います。
「教養」は毎日をよりよく生きるためにも有効ですが、それだけではなく、来たるべきときにむけて「教養」を見直し自身に取り入れていくことこそが、やはり今こそ必要なのではないでしょうか。
<参考文献・参考サイト>
・『池上彰のやさしい教養講座』(池上彰著、日本経済新聞社編、日本経済新聞出版社)
・新設大学等の情報│文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/secchi/index.htm
・『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』(デイヴィッド・S・キダー、ノア・D・オッペンハイム著、小林朋則訳、文響社)
・『世界でいちばんやさしい 教養の教科書』(児玉克順著、fancomi絵、学研プラス)
・「教養」、『世界大百科事典』(平凡社)
・「教養」、『日本大百科全書』(小学館)
・「教養」、『日本国語大辞典』(小学館)
・「一般教養」、『日本大百科全書』(小学館)
・「自由七科」、『日本大百科全書』(小学館)
・『キケロー選集 12』(木村健治・岩谷智訳、岩波書店)
・「日本のリベラル・アーツの歩みとこれから」、『学術の動向』13(5)(長谷川寿一著、公益財団法人日本学術協力財団)
・「教養主義」、『国史大辞典』(吉川弘文館)
・『死と身体』(内田樹著、医学書院)
・出口治明が語る「教養と日本の未来」(2)「人・本・旅」│10MTVオピニオン
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2136
・「島田村塾」リベラルアーツ特講(1)生き抜くためのリベラルアーツ│10MTVオピニオン
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=496
・『10万年の世界経済史 上・下』(グレゴリー・クラーク著、久保恵美子訳、日経BP社)
・『もっと言ってはいけない』(橘玲著、新潮新書)
・『ポスト・ヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル著、小野木明恵・野中香方子・福田実共訳、NHK出版)
・「シンギュラリティ」、『現代用語の基礎知識 2019』(自由国民社)
・『池上彰のやさしい教養講座』(池上彰著、日本経済新聞社編、日本経済新聞出版社)
・新設大学等の情報│文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/secchi/index.htm
・『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』(デイヴィッド・S・キダー、ノア・D・オッペンハイム著、小林朋則訳、文響社)
・『世界でいちばんやさしい 教養の教科書』(児玉克順著、fancomi絵、学研プラス)
・「教養」、『世界大百科事典』(平凡社)
・「教養」、『日本大百科全書』(小学館)
・「教養」、『日本国語大辞典』(小学館)
・「一般教養」、『日本大百科全書』(小学館)
・「自由七科」、『日本大百科全書』(小学館)
・『キケロー選集 12』(木村健治・岩谷智訳、岩波書店)
・「日本のリベラル・アーツの歩みとこれから」、『学術の動向』13(5)(長谷川寿一著、公益財団法人日本学術協力財団)
・「教養主義」、『国史大辞典』(吉川弘文館)
・『死と身体』(内田樹著、医学書院)
・出口治明が語る「教養と日本の未来」(2)「人・本・旅」│10MTVオピニオン
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2136
・「島田村塾」リベラルアーツ特講(1)生き抜くためのリベラルアーツ│10MTVオピニオン
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=496
・『10万年の世界経済史 上・下』(グレゴリー・クラーク著、久保恵美子訳、日経BP社)
・『もっと言ってはいけない』(橘玲著、新潮新書)
・『ポスト・ヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル著、小野木明恵・野中香方子・福田実共訳、NHK出版)
・「シンギュラリティ」、『現代用語の基礎知識 2019』(自由国民社)
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収録日:2021/07/29
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