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DATE/ 2024.07.05

『あした死ぬ幸福の王子』に学ぶハイデガー哲学と存在の意味

 ハイデガーというドイツ哲学者の名前は多くの人が知っているでしょう。20世紀最大の哲学者とされる人物です。最も有名な著書は『存在と時間』ではないでしょうか。ただし実は哲学研究者の間でも、彼の思想全体を読み解くのは難解であると言われています。今回紹介する『あした死ぬ幸福の王子 ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』(飲茶著、ダイヤモンド社)はこういった難しいハイデガー哲学を、わかりやすい物語形式に落とし込んで解説するものです。

 本書の著者である飲茶氏は東北大学大学院を修了したのち、現在は経営者、哲学作家、漫画原作者として活躍しています。また、哲学、科学、数学に関わるものごとを解説するブログは、そのわかりやすさから人気となりました。著書としては、本作のほかにも『史上最強の哲学入門』(河出文庫)や『正義の教室』(ダイヤモンド社)、『哲学的な何か、あと科学とか』『哲学的な何か、あと数学とか』(共に二見文庫)など多数あります。文章や漫画を通して、哲学をわかりやすく解説しています。

物語は主人公が余命を宣告されるところから始まる

 物語は、ある国の王子(オスカー)が蠍(さそり)に刺され、1ヶ月以内に死ぬと医者に宣告されるところから始まります。全ては思い違いで、全ては夢だったのではないかと考えて、蠍に刺された森に戻ったとき、ボロボロの服を着た女が現れます。その汚らしくみっともない姿を見て、オスカーはイライラし、サファイアのついた靴で顔を蹴り上げてしまいますが、のちのちこのことは大きな意味を持ってきます。

 自分の意識や感覚が永遠に失われることを恐れた王子は、自暴自棄になって小さな湖に首まで入ってしまいます。そうして世界に呪詛を吐いていたとき、釣りをしていたある老人が「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだな」と王子に声をかけます。

 その後、王子は湖から上がって森をさまよっているうちに大臣に発見され、城に連れ戻されます。そして翌日、再び森を訪れた王子は老人を見つけ、どういう意味だったのだと話しかけます。ここからこの老人が「死とはなにか」と考えたハイデガーの哲学を王子に伝えていくことになります。

「死」はその人固有の問題である

 ハイデガーは「死」を分析して5つの特徴を取り出します。それが「確実性(必ず死ぬ)」「無規定性(いつ死ぬかわからない)」「追い越し不可性(死んだら終わり)」「没交渉性(死ねば無関係)」「固有性(代理不可能)」です。そして、「没交渉性(死ねば無関係)」と「固有性(代理不可能)」について、本書ではより詳しく取り上げられます。

 人間は周囲を自分にとっての道具としてみています。ここでの道具とは「代替可能なもの」です。しかし、「死」は「個人にだけ起こり、他人には代理不可能な出来事」です。この意味で「自分の死」と「他人の死」は全く異なります。ハイデガーが考えるのは「自分の死」についてです。これは「固有」のものであり、代理不可能です。

「死」を知るものは「本来のあり方」を問うことができる

 道具は他の道具との関係性で成り立っています(板をとめるためのクギ、クギを打つためのハンマーなど)。世に生まれついた瞬間に人はこのような関係性(道具体系)に投げ込まれています。しかし、「死」はこの呪縛から人間を解き放ちます。「死」によって他との関係性の糸が断ち切られる、つまり没交渉になれば、道具ではなくなります。こうして自らの「死」を知ったものは、道具ではない自身の「本来のあり方」について問いかけ始めます。

 つまり「死」を知ったものには、「道具ではない自分は一体どういう存在なのか」「今までの生き方についての疑問」といった「存在そのものへの疑問」が湧いてきます。人間はこの問いに答えるためにこの世に生まれ、今まで生きてきたのではないか、と物語の中でハイデガーの言葉を借りた老人は語ります。

 また、この問いを抱くことが「人間本来の生き方」だと言います。この物語の中での王子は余命を宣告され、まさにこの状態にあります。はじめに老人が王子に「とてつもなく幸福なやつだな」といった理由は、まさにこの点にあります。

「この瞬間に人間は死ぬ存在なのだ」という事実を受け止めよ

「本来的な生き方」とは「代理不可能な、道具ではない生き方」であり「死を意識した生き方」となります。これに対して「非本来的な生き方」とは「交換可能な、道具のような生き方」であり「死を忘却した生き方」です。また、ここでハイデガーは「死の先駆的覚悟」という言葉を使います。これは、「この瞬間に人間は死ぬ存在なのだという事実を真っ向から受け止めよ」ということです。

 また、人間には「良心(負い目)があるから、死の先駆的覚悟は可能だ」ともハイデガーは言います。なぜ人間が追い目を感じるのかと言えば、それは「人間が有限な存在である」からです。たとえば、パーティの最中、おしゃべりと好奇心で心が満たされて楽しいときでも、ふとした瞬間に「こんなことがいつまでも続くはずはない」と感じるはずです。この有限性を感じ取ったとき、「負い目」が顔を出しています。

「負い目」を持つことで「本来的に生きること」ができる

 このように「負い目」は有限性への扉であり、人間が無力で限りある存在だと知らせてくれる大事なメッセージです。この「負い目(自己の有限性)」をそのまま見逃さず、向き合っていれば「死の先駆的覚悟」を持ち「本来的に生きること」も可能かもしれません。つまり「負い目(良心)」とは、人間を本来的な生き方に導く可能性を持ったものです。

 老人と話ようになってから、王子は自らが蹴り上げて怪我をした女性の家を頻繁に訪れるようになります。はじめそれは罪悪感(負い目) からですが、王子は女性の命の有限性に触れることでこの女性にかけがえのなさを感じていきます。この後、物語がどうなっていくかはぜひ本書を開いて読んでみてください。

 哲学と聞くと、自分とは関係がない難しい言葉で難しいことをいうものだと思うかもしれません。しかし哲学的に考えを整理した人間の苦しみのありようは、今の私たちと変わりません。ハイデガーの発想の背景には、自身が心臓疾患を抱えて、死にかけたり蘇ったりといった体験が関係しています。

物語が伝えるハイデガー思想のリアリティ

 この本は主人公である王子が生徒、老人が先生役として対話が進む形で解説されます。いわば物語で進行する哲学教室です。この先、王子はどうなるのか、ハイデガーのこの思想はこの王子の心理をどう変えるのかといったように、どんどん先を読みたくなります。実際に、ハイデガーの思想を受けて王子オスカーの心理は少しずつ変化していきます。

 この王子オスカーの様子には、私たちと同じ人間としてのリアリティがあります。この意味で本書は単なる哲学の一般的解説書とは異なり、ハイデガーの思想をある程度のリアリティとともに感じ取って理解することができます。これまで哲学に触れたことがない人であっても、またこれまで哲学の本を読んであまり理解が進まなかった人に対しても、自信を持っておすすめできる一冊と言えます。

<参考文献>
『あした死ぬ幸福の王子 ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』(飲茶著、ダイヤモンド社)
https://www.diamond.co.jp/book/9784478114315.html

<参考サイト>
飲茶氏のX(旧Twitter)
https://x.com/yamcha789

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