●日本での元号の始まりは「大化」
こんにちは。東京大学史料編纂所教授の山本博文です。今日は「元号とはなにか」というお話をしたいと思います。
元号の始まりは、もともと中国の前漢の時代に元号がつくられます。武帝という前漢の皇帝が「建元」を使ったのが最初です。
日本での元号の始まりは「大化」で、西暦645年に制定されます。つまり長い歴史を持つ中国の元号が日本に取り入れられたということになります。
原理的にいえば、元号は「皇帝が、領地や人民だけではなく、時間をも支配する」という観念の現れと見ることができます。
では、なぜ日本に元号は導入されたのでしょうか。西暦645年には中大兄皇子が権勢をふるった蘇我入鹿を殺害して、蘇我氏の本宗家を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」がありました。これが契機になって、新しい政治が始まります。その政治を「大化の改新」というわけですが、天皇家中心の世の中になったことを示す、一つの象徴として「大化」という元号が選ばれたと考えられます。
●事があれば使われていた初期の元号
最も初期の元号は、どのように扱われてきたでしょう。大化6(650)年に穴戸国(あなとのくに、山口県西部)の国造である草壁連醜経(しこぶ)という人が、白雉(しろききぎす、白いキジ)を献上します。これは非常にめでたいことだ=「祥瑞」だということで、「白雉(はくち)」という元号に改元します。つまり、大化ー白雉と続くわけです。
白雉5(654)年に孝徳天皇が崩御して、斉明天皇が即位する時に元号は制定されません。つまり白雉以降、改元がなされず、元号の使用は32年間にわたって途絶えるわけです。
その間、斉明天皇が崩御し、唐・新羅の連合軍との戦いである「白村江の戦い」があって、日本は敗北。唐・新羅が攻めてくる心配もあり、国中に城を築いたり、都も大津府にうつす世情となります。やがて天智天皇が即位しますが、死後に「壬申の乱」が起こり、弟である天武天皇が即位します。
天武天皇15(680)年に、今度は赤いキジの献上があって、これは非常にめでたいということで「朱鳥」という元号に改元します。つまり、しばらく使われていなかった元号が、このような祥瑞があったということで、再び国を統一した天武天皇の元で制定されることになるわけです。
天武天皇が崩御して、皇后だった持統天皇が即位しますが、この時、改元はなされません。その子どもである文武天皇5(701)年に再び元号が定められるわけですが、それまで元号は中断した状態です。つまり、この時期は、何か契機があって元号を使うということはあるものの、必ずしも定着した制度ではなかったことが見て取れます。
●元号使用を定着させた「大宝律令」
文武天皇5(701)年に「大宝」という元号が制定されて以降、元号は日本の社会に定着していきます。大宝は、対馬国から金が献上されたという知らせがあったことを祥瑞として制定された元号です。
大宝には、有名な「大宝律令」があります。中国の律令(刑法と行政法)を日本に導入して、日本的につくりかえて出したものです。この大宝律令は、日本が法律に基づく国家を築いた象徴的な法律になるわけです。つまり、文明国になったという証で、それまでは慣習で世の中が治められていましたが、これからは法律で日本を治めていくということです。その象徴が大宝律令であり、大宝律令によって元号を使うことが定められるのです。
古代の日本には中国の文化的影響が非常に強かったわけですが、この時に中国の元号を使わず日本独自の元号を定めたということは、日本の独立意識の証明でもあると考えることができます。中国の伝統に従った制度を使いながら、日本独自に定めるという国家の姿勢を示しているのです。
●飛鳥時代末期からの元号は「祥瑞」が主流派
その後、飛鳥時代の末期から奈良時代の前期までの元号を見ていきますと、慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀と続きます。
「慶雲」は祥瑞で、非常にきれいな雲が空に現れたということをめでたいこととして改元したものです。「和銅」は、武蔵国秩父郡から銅が献上されることになり、「和銅開珎」という貨幣が鋳造されるわけですが、これを契機に制定したのが和銅という元号です。
次に「霊亀」ですが、これは背に七つ星がある亀が献上されたということで、やはり祥瑞です。「養老」は、元正天皇が美濃に行幸した時に「美泉を訪れる」ということで、非常に肌に良い泉があったことを祥瑞として、定められています。「神亀」は白い亀が献上された祥瑞です。
飛鳥時代末期から奈良時代前期までの元号は、祥瑞を契機に改元するのが一般的な行われ方でした。何か縁起のいいものにあやかって政治がうまく...