●「我思う、ゆえに我在り」はデカルトの専売特許ではない
高校で実際に使われている倫理の教科書を何冊かおもちしました。東京書籍の『倫理』、第一学習社の『倫理』、山川出版社の『現代の倫理』、清水書院の『新倫理』、同じく清水書院の『現代倫理』です。他にも、多くの高校で倫理の授業に使われている教科書がありますが、こうした教科書全てに、デカルトと言えば、こう書いてあるわけです。
「我思う、ゆえに我在り」
これは「彼の専売特許でしょう」と言わんばかりに、倫理の教科書でデカルトについて紹介をしているのです。
これは或る意味、間違いではありません。もちろんデカルトと言えば、「我思う、ゆえに我在り」です。「私は考えているから、私は存在するのだ」ということを明確に宣言した哲学者として記憶に残っていますし、そのことに間違いはないのですが、専売特許というのは少し不正確な理解です。もちろん教科書がそう言っているわけではなく、私がこれらの教科書を読みながらそういう印象を抱いたわけです。いずれにしても、もし「我思う、ゆえに我在り」をデカルトの専売特許と捉えている方がいたとしたら、是非今回のレクチャーを聴いて、デカルトについて理解を深めていただきたいと思います。
なぜならば、同じようなことを実は、4世紀から5世紀にかけて活躍した初期キリスト教会のラテン教父が言っているからです。ラテン教父とは、ラテン語で著作活動を行っていた教父です。教父にはギリシャ教父とラテン教父がいて、ギリシャ教父はギリシャ語で主に著作活動をしていた人です。ここで取り上げたいラテン教父は、4世紀から5世紀にかけて活躍した初期キリスト教会のアウグスティヌスという人で、彼がデカルトと同じようなことを言っているのです。
実際デカルトも、同時代の哲学者も、そのことに気付いていました。「デカルトさん、あなた、そんなことを仰っているけれど、それは本当に自分のオリジナルだと思っているの? アウグスティヌスがすでにもう言っていますよ」と言われて、デカルトも渋々それを認めているというのが実際のところです。
●デカルトの懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれる
では一体、この「我思う、ゆえに我在り」に相当する表現はどこに出てくるかというと、デカルトが最初に公刊した『方法序説』、そして彼が二番目に公刊した『省察』、これらの本の中に出てきます。
今日は、1641年に第一版が出て、翌1642年に第二版が出た『省察』、そう言ってよければこのデカルトの主著に依拠しながら、この「我思う、ゆえに我在り」が一体どの限りで、デカルトのオリジナルと言えるのかを見ていきたいと思います。つまり、どの限りにおいて、これらの教科書が言っていることは正しいのか、ということを、『省察』を紹介しながら皆さんにお話ししていきたいと思います。
デカルトの『省察』という本の仕掛けは、なかなかに複雑です。彼はまずこういうことから始めます。一切を根底から覆すというのです。何の一切かというと、私が今までいろいろと考えてきたり信じ込まされてきたりした知識や意見で、それを一度全て覆す、最初から全部やり直すということです。そのために一体何をしたらよいかというと、一つ一つ疑っていくことです。これは本当に本なのか、私は本当にここに存在しているのだろうかなど、いろいろと疑っていくわけです。何かをするために疑うので、これを専門家のあいだでは「方法的懐疑」と言います。何か目標があって、それを実現するための、つまりその手段としての、方法としての疑いであるのが「方法的懐疑」です。
この特徴をまず押さえておきたいと思います。どういう特徴があるかというと、懐疑のための懐疑ではないということです。疑うために疑っているのではない、何か別の目的があって疑っているのです。疑うようなことがあるから疑うのではなく、何か別の本当にやりたいことがあるから疑っているのです。
本当にやりたいことは何か。おいおいまた明らかになってきますが、結論を先に申し上げると、「本当の知識とは一体何か」ということを探し出すために、とりあえず今まで自分が信じこんできたさまざまな知識を疑ってみようということです。
よって、重要なのは懐疑主義的な懐疑ではないということです。疑うことだけに喜びを見いだしている人たちのやっていることとは違います。疑うことに喜びを見いだしている人たちのことを「懐疑主義者」と言いますが、そういう人たちの疑いとはちょっと違うということです。と同時に重要なのは、疑うために疑っていないので、あらゆることを疑うということもし...