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古代ローマの敗戦将軍の扱いに通じる幕末期の敗者の処遇

ローマ史と江戸史で読み解く国家の盛衰(7)敗者と人材

情報・テキスト
多くの国で敗戦将軍は処刑されるが、ローマは彼らをすでに屈辱という社会的制裁を得た者とし、捲土重来を期すべく処遇した。日本の将棋では、寝返ったものを仲間に迎える思想が取った駒を再使用するルールに現れている。負けて帰れる場があるかどうかは大きな問題だ。(全8話中第7話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:14:41
収録日:2019/08/06
追加日:2020/01/30
≪全文≫

●徳川慶喜はなぜ処刑されなかったのか


本村 幕末に、あれだけ薩長と幕府が戦ったときに、慶喜に対して処刑あるいはそれに値するような処罰がなかったのは、世界史的に見ると、かなり異例だと思います。それだからうまくいったのかもしれないですけど、あれはなぜ何でしょうね。

中村 戊辰戦争というのは、世界史的に見ると非常に特殊な内戦です。南北戦争では、双方で50数万人が死んでいます。ところが、あの戊辰戦争の場合は、東軍(旧幕府軍)戦死者が7000~8000人ぐらいです。西軍(新政府軍)は正確なデータを持っていないんですけれども、おそらく5000人に届いていないと思います。ということは、亡くなったのは総計1万人ほどということになる。明治元年から明治2年の5月まで約1年半続いた、あれだけ熾烈な戦の割には、戦死者が異様に少ないのです。それはやはり、いわゆる大量虐殺を行わないというような稲作民族の発想にも通じるのかなという気もします。

 本村先生がおっしゃったように、敗者に対して過酷な刑を与えることが意外にないんですね。奥羽越列藩同盟は、奥羽が25藩、北越が6藩、これに会津と庄内と、旧幕府脱走軍が加わるわけですが、その中に1人として戦争責任を問われて斬首された殿様はいない。責任を取らされた家老は何人かいるけれども、藩の最高責任者は1人も処刑されていません。

 その当時「寛典論」という思想が非常にはやっていて、外交上も「寛典を請う」ようなことが主流になります。最終的には明治新政府側が、寛典論の嘆願に対して、「天皇の御恩によって、おまえたちに寛典を与える」と通達する。「ありがたく思え」ということでしょうが、会津は28万石から3万石へ、一気に石高が下げられます。それでも一応(松平容保は)子爵になることが許され、戦争犯罪はあまり深く問われずに終わった。非常に不思議な、日本的な決着のつけ方になるんですね。ヨーロッパの市民革命だったら毎日ギロチンだったかもしれませんね。


●敗戦将軍を寛大に扱ったローマの思惑


本村 ローマもそうじゃなくて、まさに日本的ですよ。ギリシアの場合、敗戦将軍はもう帰ってこられない。典型的なのはツキジデスです。ツキジデスはペロポネソス戦争の歴史を書きますけれども、アテネの敗戦将軍なので、戻っていったって下手すると処刑、命をながらえても追放です。だから、帰っていかなかったんです。

 ところが、ローマは敗戦将軍を受け入れます。「カンナエの戦い」では、カルタゴにひどく負けた将軍で、ウァロというのがいますが、彼も帰っていきます。それで、処罰されるわけじゃない。ローマ人の考え方として、もちろん敵を見たらすぐ逃げ出すようでは駄目だけれども、周りの連中に「あの将軍は一生懸命やった」と言われる人であれば、そうやって受け入れた。一つには、敗戦によってすでに屈辱という社会的制裁を受けたと考える。それから、そのような屈辱を持った人間は、次回に捲土重来を期すだろう。つまり、汚名をすすぐためにそれ以上の仕事をするだろうというのが、ローマ人の基本的な考え方です。

 それから、敗者に対しても比較的穏便な扱いをします。一番トップを見せしめとして晒し者にすることはあるし、逆らう者たちに関してかなり残酷なことをするけれども、ある程度降伏してくれば、それは認めるという態度があります。敗者への態度は、日本も割に似ていると思っていましたが、『史記列伝』や『三国志』を読むと、もうひどいですね。敗者はもう自分の土地へは帰れない。万一帰ってくると、自分だけじゃなく一族郎党全部殺されるなんていうことが当たり前のように行われた。一体何だろうということをすごく感じます。

 結局、ローマと江戸および日本全般がどこか似ているのは、そういう敗者への態度や敗戦将軍の責任の取らせ方、すでに社会的制裁を得たのだから次の機会を与えてやろうというようなところもあります。


●ギブアップも裏切りもあり―将棋に表れる日本の戦史


中村 たしかにおっしゃる通りです。日本史を見ていくと、私はやはりこれは稲作民族の戦争だと感じます。なおかつ、秀吉が天下を統一するまでは兵農分離が行われていないから、農民が戦場に出てくるわけですね。彼らが全部戦死や刑死をしてしまうと、奪った田畑を耕す人が誰もいなくなって、ただの荒地になってしまう。それでは戦争に勝った意味が全然なくなってしまう。だから、ある程度降伏者を受け入れて、また帰してやる。要するに、農民であり兵士である人たちにとっては、年貢米の納め先が変わるだけの話で、自分たちの生活は変わらないというのが、兵農分離以前の日本の合戦の姿だったろうと思うわけです。

 戦争ゲームである「将棋」にも、そういう特徴が出ます。あれはインド発祥の「チャトランガ」というゲームで、西に行ってチ...
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