●「姓名を問う」は、相手を尊重することの第1番目
後半の話をしていきたいと思います。聖徳太子は「歌いかける人である」ということを言いました。これは、『万葉集』にも『日本書紀』にも載っているので、「聖徳太子が歌によって相手に問いかけた人である」という話が8世紀の人たちには広く知られていたのだと思います。
そのときに、最初に姓名を問う。食事を与える。そして衣服を与え、歌を与えるという順番ですが、姓名を問うことは、相手を尊重することの第1番目にきています。
つまり、相手がどういう名前を持っているかを尊重する。名前には、それを付けた人もいれば、地域や学校でどう呼ばれて尊重されてきたかにもつながる。名前は、極めて大切なものなのです。
私がいまだに忘れられないのは、1980年代の後半にポーランドから留学生が来た時のことです。「カミニスカ」というのが、そのポーランドから来た金髪の女子学生のお名前でしたが、ある時、男子学生が「カミニスカヤ」と呼びかけました。私はその横にいたのですが、みるみるうちにその人の顔色が変わり、「私はカミニスカであって、カミニスカヤじゃない」と涙ながらに抗議をしました。これは何を意味しているのか。私もそれが分かったのは3年ぐらい後でした。
いわゆる「ベルリンの壁」が厚かった時代、ポーランドは実質的にソヴィエト連邦の支配を受けていた時期でもあったわけです。一方でポーランドの人々はカトリックの信者でもありますので、ポーランドの文化=カトリックの文化に誇りを持って、大切にしようとしていました。したがって、ロシア風に「カミニスカヤ」と呼ばれると、自分を否定されたような気分になったのでしょうね。私にはそういう思い出があります。
●「食事」はともに和むこと、「衣服を与える」は「慈悲の心」
例えば国際学会に出ると、難しいことがあります。こちらがフッと綴りを読んでも、その人(本人)がどのように読むかはまた別なのです。「ミルセアと呼んだほうがいいでしょうか。ミルチャーと呼んだほうがいいでしょうか」ということもあれば、「キムさんと呼んだほうがいいですか。キンさんと呼んだほうがいいですか」ということもあります。名前を呼ぶのは、相手を尊重することの最初なのです。それは、他者を敬う心です。
私は思うのですが、物をもらう側にもプライドがあります。物をもらう側は、何ももらいたくてもらっているわけではなく、もらわざるを得ない立場にいるのです。その人たちにたとえ普通に接していたとしても、それは上から目線になります。まず最初に名前を訊くところから入るのは、「(あなたと)同じだよ」ということを表すことになるわけです。それは一つのことなのです。
食事を与えるのは、生命の危機を救うことですが、人間は食事を通してコミュニケーションを取る動物です。例えばサルの場合、自分の子どもに食べ物を与えることはありますが、子どもが成人してしまえば、食べるときは取られないようにお互い後ろを向いて1人で食べます。
ともに食べ物を融通し合って人類は生き残ってきましたから、ともに食べるというのは人間にとって極めて大切な行動です。だからこそ、コロナ禍対策の中で会食禁止というのは、やはり辛いことなのです。またお酒を飲むのも、その一部です。ですから、食べ物=食事を与えることには、そういう宗教的意味があると考えなければいけません。「ともに和む」ということですよね。
そして衣服を与えるのですが、これも、自分の着ているものを脱いで与えるということです。あなたが温かくなれば、私は寒くなってもいい。自分が今着ているものを与えるところに「慈悲の心」があると思うわけです。しかも、衣服というものは肌に接している。身近に接しているものを与えるということが大切なことなのでしょうね。そういうことがあります。
●「歌」は、声を通して人に語りかけて心をいやす
そして、歌を与えるというのは、相手の心情に働きかけ、声を通して人に語りかけて心をいやすということです。
私は、フランクフルトの空港に到着した後、荷物を紛失したことがあります。これから2週間もヨーロッパで暮らさなければいけないのに、その荷物がない。顔面蒼白で呆然と立ち尽くしていたところ、後ろのほうから空港職員に声をかけられました。
こちらは言葉が出ない。なんといっていいか分からない私の顔を見て一言、「ロスト・バッゲージ?」。「そうなんだ!」と言ったら、「OK」と言ってニコッと笑い、「フォロー・ミー(ついてこいよ)」と言われました。不思議なもので、それだけで救われるのですね。
結局、荷物が戻ってきたのは日本に到着してからでしたが、職員は「ロスト・バッゲージ?」と声をかけてくれ、「フォロー・ミー」と事務所へ...