●資本主義的な流れを切断しなければ、資本主義は見えてこない
―― 考えてみれば、ヨーロッパ社会においても、例えば修道院があります。ある意味では、日本の禅寺に似た、あるいは匹敵するような人を育てる組織はずっと普遍的にありました。これはたぶん世界中いろいろなところにあったと思います。そういう人を高めるあり方に、どう光を当てて、大きくしていくかを考えることが、今後の資本主義の一つのあり方において大事になっていくのでしょうか。
中島 そうだと思います。よく「人材養成が大事だ」といわれますが、「人材養成をどういうイメージでお考えになっているのですか?」と逆に問いたいと思います。
―― 昔であれば、モデルパターンとして、こういうサラリーマンになったら良い、あるいはこういう経営者になったら良いというのがあったかもしれません。しかし、ここまでの社会になってくると、こういう人が良いというのがなかなかつかみづらいですね。
中島 そうです。やはり資本主義なら資本主義のあり方自体を、大局的にも、あるいはミクロでも把握できる能力が必要だと思います。こういう言い方をすると矛盾に聞こえるかもしれませんが、そのためには、資本主義的な流れからいったん身を切断していかなければいけません。そうやって見ないと、資本主義は見えてこないと思います。切断して、もう一回、つなぎ直してみる作業が必要なのではないでしょうか。現代的な禅寺や修道院にはそういう役割があるのかなと思います。
資本主義の流れの中で、われわれはグルグルといつも溺れている感じですが、どこかでそれを切断していく契機が絶対に必要です。本当は資本主義自体がそれを大事にしたほうがいい気がします。そうしないと、資本主義はもう資本主義ではないものに変質して、消えてしまうかもしれない気がします。
●人が変容するために必要なのは情報を減らしていくこと
―― カトリックの歴史でいうと、(権力と癒着した時期と、権力と対峙する時期とでいろいろとありましたが)いわゆる世俗権力とは違うもう一本の柱としてずっとありました。この資本主義においても、ある意味ではそうしたもう一本の柱としての価値観をつくっていくことで、中にいたら分からないことも、外から見られるようになるというイメージでしょうか。
中島 私はそうだと思っています。
―― デジタル全体主義の話の流れでいうと、今のお話を聞いていて、矛盾というか、難しい問題として今少し感じたのは、SNSです。冒頭の問題意識であった「人びとが自発的に情報を上げていく姿」は、主にSNSにあって、フェイスブックやツイッターで情報を上げていきます。
使っている側からすると、それを上げることによって、例えば大学時代の友だちが反応してきたり、自分のコミュニティの中の友だちが反応してきて、そこで共感や、「いや、こんなこともあるよ」といった体験の共有ができます。昔、楽器をやっていた人が、もう一回、始めたいと言ったりすると、昔の仲間が、「あの先生が良いよ」、「良い先生がこういうところにいるよ」、あるいは「こういう良い団体があるよ」と教えてくれたりします。そうして知恵が集まり、自分が高まっていくための一種のツールになります。
たぶんみんな実感値としてはそうやって使っていると思うのですが、裏側を見ると、そこで上がった情報がビッグデータになって、先ほど言った一部のエリート層といっていいのでしょうか、いわゆる情報を握る人たちが、それでデータを取って、どうやればみんながもっと使うかなどを設計主義的に動かしていく世界があります。そうした中で、このデジタル全体主義的な部分と、人と一緒に育っていく、人の資本主義的なものの矛盾をどう解消すればいいのでしょうか。
中島 人がつながっていくと、一種のアソシエーションができます。そのためのツールとして、SNSは非常に有効な面が当然あると思います。しかしその中で、人間一人一人が本当に変容するのかが私には少し疑問です。やはり人間は変わっていかないといけないと思います。
SNSを見ていると、プラスの思考です。情報をたくさん入れて、増やしていくという思考だと思います。しかし、私は人が変容していくときに必要なのは、実はマイナスしていくこと、減らしていくことではないかという気がします。
―― それはどうしてですか。
中島 例えば禅寺で何をするかというと、禅寺でするのは情報をたくさん入れることではたぶんなくて、逆に情報を削ぎ落していくことです。私たちは、情報でお腹いっぱいになってしまうのです。そうではなくて、情報を削ぎ落した中で見えてくる人間のあり様にいったん立ち入らないといけないのではないかという気がします。
そのプロセスさえ担保できていれば、そのあとにもう一回その情報...