●北と南の辺境地域における軍事的緊張
「将門の乱」では、将門は「兵(つわもの)」と呼ばれました。「将門の乱」については、「将門の乱」の道筋を追った『将門記(しょうもんき)』という有名な軍記作品があります。また、院政期に登場した仏教説話集である『今昔物語』でも、「将門の乱」や「純友の乱」について、いろいろと記しています。
そういう作品の中で、将門のことを「武士」と呼んでいる資料はありません。資料に登場するときには、いずれもみんな「兵」と呼んでいました。最初に少しお話ししたように、兵は「うつわもの」からきています。つまり武器、武具を自由に操り駆使する存在を「兵」と呼ぶとすると、兵はそもそもどういう要請の中で登場したのかという問題に立ち至ります。
その際に少し考えておかなくてはいけないことがあります。日本は東アジアの一環に位置していることを以前に申し上げましたが、日本には対外的な緊張がいくつかありました。その状況の中で、古代の国家に軍事的に大きな課題としてあったのが、ご承知のように8世紀の段階から9世紀にかけて行われた「蝦夷(えみし)戦争」です。坂上田村麻呂や文室綿麻呂という人たちによって蝦夷の制圧、いわば「征戦」が成されました。
一方では、日本は東西に、また南北に弓なりの列島なので、その意味では大陸との関係に最も近い九州、北九州、壱岐対馬を含めた地域もまた海防という軍事的な緊張の問題があります。日本を取り巻く北と南の状況として、北は蝦夷との問題、南は新羅(朝鮮)との対抗問題がありました。われわれはどうしてもそのあたりのことを忘れがちですが、そういう軍事的な課題を古代以来ずっと担っていたことをまずは頭の中に入れておく必要があります。それは、兵の登場という問題と対を成す課題でもあったのです。
●2つの軍事的緊張の解消が10世紀の王朝国家の課題
10世紀の初頭に醍醐天皇という第60代の天皇がいました。醍醐天皇の政治的諮問に応えたのが、ちょうど菅原道真と同じように、学者の家の一族で文人貴族だった三善清行です。この人物が「意見封事十二箇条」という意見書を出します。天皇が、どうすれば日本国の中央政治は良くなるのかと諮問し、その内容に対して提案していきます。
その提案書の中で10世紀初頭の日本国が抱えている最大の課題の1つが、9世紀以来ずっとある蝦夷問題とその後遺症です。これが依然として残っていました。もう1つは南の北九州、壱岐対馬を含めた新羅との対立と緊張関係で、これも依然として強く残っていました。北と南が遭遇するこの2つの軍事課題を、いかに対応し、処理していくのかが重要であるという趣旨の、今日風にいえば防衛白書を提出しました。それだけ10世紀初頭の、いわば王朝国家期の初めの段階にあっても、古代以来、連綿と続く軍事的緊張は続いていたのです。
問題は、その2つの軍事的緊張の懸案をどういう形で解消していくかです。それが10世紀の王朝国家の課題でした。
簡単にいうと、古代律令国家は全て中央政府が監督・管理しながら、中央が均一的な形で全部指示していくシステムになっていたということがポイントです。ところが10世紀以降に成立する王朝国家は、以前にもお話ししたように、大陸の状況の中で中国の1つのシステムが解体した後に、大陸情勢の変化に対応して、地域ごとに自立化が進んでいきました。その中で日本国は律令国家から新たに王朝国家へと転身していきます。
●王朝国家の「請負」とは…律令国家の建前主義からの脱却
その王朝国家の最大の原理が「請負」です。この請負のシステムを軍事力の段階に対応させようということで、このシステムが新しい国家政策の中で広く採用され始めたことがポイントです。
「請負」という言葉は文字通り、昨今いわれている「請負」です。場合によっては「委任」と置き換えてもいいと思います。律令体制との最大の違いは、律令制の原理は全て均一化された国家システムであることです。律令制の概念の原理原則の一つは、いわば中央の政策を地方の国司が体現して、そして国司が中央の指示通りに地域支配を全うしていくことです。その意味では、律令は儒教主義のシステムなので、こうすべきである、こうあるべきであるという「べき論」の中の建前主義です。
ところが、王朝国家における請負は結果主義です。最終的にいえば、手段は問わないので、結果として決められた税額を全うして納めれば、具体的に現地でどういう方向で税を取ろうと、中央政府は「知ったこっちゃないよ」、「お任せしますよ」ということです。これが委任あるいは請負の意味していることです。
その意味では、かつての律令国家が建前主義、あるいは理想主義であるのに対して、王朝国家は...