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この大変な時期に、日本人として「知らない」では済まない

天皇のあり方と近代日本(7)「運を天に任せる」は無責任

片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授
情報・テキスト
今、政府のさまざまな会議も、皇室のあり方について、根本的に考えるところまで踏み込んでいないように見える。しかし、もはや時間的な余裕はない。「運を天に任せる」では無責任なところにまで来ている。皇族のご行跡が表に出た場合、大きな問題になりかねないのは、明治時代の北白川宮能久親王の例でも明らかなことであった。むしろ、皇室をオープンにして、よく70年以上も保ったといえる。もはや皇室のあり方は、「知らない」では済まされない段階に差し掛かっているのだ。(全7話中第7話)
  ※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:11:39
収録日:2021/11/02
追加日:2022/01/27
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≪全文≫

●このまま腰が引けていたら、時間的にも大変になる


片山 何か、ポジティブに変えていくためには、やはり、戦後の皇室が「人間天皇」と「象徴天皇」の合致点に、うまい落としどころを求めて探してきたということの「限界」を踏まえていく(必要があります)。それは極端な言い方をすれば、平成の時代で、そこで切れてしまったわけではないけれども、一つの大きな節目を迎えたと思います。

 平成のグランド・フィナーレは、(戦後皇室の姿を)「美しく」見せたと思いますが、その後は「その続き」ではうまくいかないことがあまりに多すぎる。ここで、やはり考え直すタイミングなのでしょう。

 ただ、そこまで考え直すことを議論するところまでは、政府のいろいろな会議なども(行っていない)。そんなところへ踏み込んでは大変だということで、かなり引いていると思うのです。そこで引いていると、何となく自然に、物事はどんどん過ぎて行ってしまう。時間的にも大変なのではないか。そのことは、私のように、本来は「あるがまま、なるがままが日本的だ」と考えている人間にも分かることです。

 「あるがまま、なるがまま」だと、滅びの美学的になっていくではないですか。何が滅びるかというような僭越なことはいっていないのですが、やはりちょっと心配です。そうすると、「運を天に任せる」ということでは無責任なのかとも、少し思います。

―― そうですね。今日の議論では、多様化した社会であること、そして皇族の方々の心の問題の話もございました。公衆の前に出てきていただくということで(戦後は)来たわけですが、これだけネット社会になりSNSも盛んに行われると、芸能人でさえ嫌になってしまう。そんな時代のなかで、そういう役割を、なお皇族の皆さまに担わさなければいけないのか、ということがあります。

 また、先生のおっしゃるように、この時代の変わり目で、今までの戦後社会で通用したものが、まったく通用しない状況になっているように、講座を聞きつつ思われました。やはり福澤の「帝室論」ではないですが、戦後のあり方というものの延長線上で考えるのではなく、「本来はどうだったのか」「歴史的にはどうだったのか」という議論をより根本的に行ったほうがいいかもしれないですね。

片山 皇族・皇室をある程度文化的・人間的にふるまわせながら、その権威を保っていくための方策を探るのは、本当に難しい問題です。それには「民間人化」するよりも、やはり「バチカン市国にいるローマ教皇庁的な人たち」を手本にしてみる。もちろんバチカンの場合は、皇族とは全然違って、王族でも血筋でもなんでもないのですが、でも、京都におわしました天皇のありようは、長年そちらに近かった。その方向で考えることが一つあります。


●明治政府を震撼させた北白川宮能久親王のご行跡


片山 あとは、反動的な話ですが、とりあえずは何でも人間的にするより、場合によってベールを厚くするようなことも必要かもしれません。

 皇室・皇族にいろいろな人間がいるのは、いつの時代でも同じです。生々しく、やりたいようにやらせて、いろいろな姿が見えるとすると「権威が崩壊する」ということになる。

 私は明治国家が皇室像を考えるとき、あの方のことが大きかったのだということを、今度の小室さん問題を通じて改めて思いました。

 (あの方というのは)北白川宮能久親王という伏見宮系の方が、幕末にいらっしゃいました。江戸幕府の長年の方針として、上野の山(寛永寺)に法親王として皇族の誰かが来ていることになっていました。幕末には、のちに北白川宮家の後継ぎになる能久親王が「上野の宮様」になっていました。

 ところが、この上野の宮様はほとんど南北朝のように、官軍に抵抗する彰義隊を擁護する姿勢を示して、彰義隊が負けると榎本武揚の軍艦に乗って東北に逃げ、奥羽越列藩同盟の盟主になってしまうのです。

 捕らえられた彼は京都に送られますが、しかし、皇族を監禁しているわけにもいかないので、ドイツへ留学に行ってもらいます。「皇族は将来軍人になることを期待される」という明治国家の将来デザインを踏まえて、プロイセンの陸軍大学校で勉強して、プロイセンの陸軍のやり方を学ぶのです。

 しかし、それで帰ってくるわけでもなく、明治政府のほうも「帰ってこられても困る」と思っていたのかよく分かりませんが、6~7年もドイツにずっと留まります。ずっといたら、次に起きたのが「婚約問題」です。ドイツの男爵の未亡人、ドイツ貴族の夫を失った結婚経験者の寡婦と婚約してしまって、「ドイツ人と結婚することを認めろ」と東京に連絡してくる。これで明治政府が卒倒せんばかりになり、日本に呼び戻して婚約をやめさせて破談にする。

 いったん彼は(戊辰戦争後、京都で蟄居〈ちっきょ〉して...
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