●「義」を大切にするのが新渡戸稲造の『武士道』
―― 今回は少し話を変えて、(本シリーズの)冒頭で出てきた新渡戸稲造の『武士道』の話に戻りたいと思います。新渡戸の時代は、外国と日本の違いに必然的に直面しなければならず、今までまったく意識していなかった者どうしがぶつかるような時代です。
冒頭では、新渡戸が「なぜ日本人はあれだけ礼儀正しい振る舞いができるのか」という質問に答えられず、それを武士道に求めていったということでした。では、新渡戸は自分の見つけた武士道の核心をヨーロッパ人たちに分からせるために、どのような例を使ったのでしょう。また、どのような説明をしたのか、ということもあると思います。
先生は、新渡戸の『武士道』をお読みになって、どのように思われますか。
本村 私が父祖の遺風に並ぶものとして言ったのは、いわゆる特攻精神や切腹が代表する強面の武士道ではありません。新渡戸稲造の『武士道』の中では、人間が礼節をわきまえ、惻隠の情を失わず、私心を捨てる姿が描かれています。いわば強面の武士道に対して、どちらかというと柔和な武士道というようなものだと思います。
もともと『葉隠』においても「武士道とは死ぬこととみつけたり」という有名なセリフがあります。そのように語りながら、自分が死に際、すなわち生死の瀬戸際にある時期にあっても、やはり忠孝の礼儀を失わないようにやっていこうというような意味で、自分に克つ。そのことが他者に克つことになるというのでしょう。
そのようなわきまえができるという意味での武士道ですから、新渡戸稲造は正義の「義」の一字こそ武士道のおきての中で最も大切なものだと考えていたわけです。
卑近な例でいくと、例えば元禄時代、太平の夢を見がちな時に四十七士の討ち入りがあった。これは、武士道の「義を立てた」という意味では、一つの典型といえるのではないかと思います。
●『武士道』に頻出するローマのエピソード
本村 新渡戸稲造の『武士道』はもともと英語で書かれています。私はこの本を今までにも何度か読んできましたが、今回読んでいて気づいたのは、彼自身が意外とローマを取り上げていることです。
―― ローマのエピソードを、ということですか。
本村 そう。ローマのエピソードを、驚くほどいろいろ取り上げています。私は江戸と比較して、武士道と父祖の遺風といいましたが、新渡戸のほうが先に気がついていたのかと。
―― そうですか。
本村 そう思いたくなるようなところがありました。いくつか例を挙げていきますと、例えばドイツの歴史学者で、テオドール・モムゼンというローマ史の大先生の言葉を引いています。ノーベル文学賞をもらった唯一の歴史家ですが、彼がギリシャ人とローマ人を比較して言うには「ギリシャ人の祈りは思索であり天を仰ぐが、ローマ人の祈りは内省(反省)であり頭を垂れて瞑想する」というのです。
これを引いて(新渡戸は)「日本人の宗教的観念は、本質的にはローマ人と同じで、個人的な道徳意識より、むしろ国民的な意識をあらわしているといっていいだろう」と言います。
(神道における自然崇拝の観念は)「わが国土に親しませ愛着させるということであり、祖先崇拝の観念は、人々の血脈をその源にまでたどってゆき、皇室をもって全国民の共通の祖となした」
新渡戸はキリスト教徒でしたが、日本人のそういういいところもちゃんと見ていて、国土に対する注目という点で、「ギリシャ人は天を仰ぐ、ローマ人は頭を垂れて下を見る」という記述を挙げているわけです。
●「敵に塩を送る」の真意が分かっていたローマ人
本村 また、彼はカエサルを暗殺したブルータスの死についての言葉を挙げています。「ブルータスの死に際して、アントニウスとオクタヴィウスが感じた悲哀は、勇者が一般に経験するものであった」と。
アントニウスとオクタヴィアヌスはカエサル派でしたが、カエサルを殺した立場にいたブルータス自身にもしのびない思いがあり、最後は自害にいたっています。こうしたことに対して、敵であったはずのアントニウスやオクタヴィアヌスも非常に同情ないし憐憫の情を持ったということです。
これに対して新渡戸が持ち出してきたのは、上杉謙信と武田信玄の話です。「北条氏は信玄と交戦状態ではなかったが、信玄を弱らせるために、この必需品(塩)の交易路を断った」というエピソードから始まります。彼ら(北条氏と信玄)は直接の対戦状態ではなかったけれども、いつかは自分の敵になることが分かっていたから塩を断ったわけです。