唯識でいわれる阿頼耶識は人それぞれが持つ語りの集積であり、個人によって当然異なる。それが「空」で実体がないと気づくと、人との垣根は取り除かれる。境界に実体はないと知るのが「大智」で、全員を平等に愛するのが「大慈大悲」である。共通の逆境である災厄のときには、共感のあり方がさまざまに試されていく。(全10話中第5話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●語りによって生かされ語りの犠牲であるわたしたち
五十嵐 よく仏教では──私が洋ちゃんに対して仏教のお話をするってあれですけど──仏教の中には小乗仏教と大乗仏教というのがあるとすると、大乗仏教の一番の基礎は「慈悲」だ、と言われていて、それが「仁」だと思います。そして、大乗仏教が、「自分」と「自分の大事な者」以外の人たちに対しても、「分け隔てのない慈悲」を持つということが、大乗仏教が大乗仏教である所以だと言われていると思うんですけど。
では、その思想的な根拠は何かというと、「無我」という言葉にあるように、「私」「あの人」「誰それ」みたいな境界線を実体化しない。「これは私のだから」とか「これはあの人のだから」というふうに、私たちは人を分断しがちですし、だから、自民族中心主義といったふうになりがちだと思います。でも、そもそも物というのは実体がない。人というのも実体がない。ただ、そういうふうに現れているだけである。
しかも唯識などでは「阿頼耶識」ということを言います。阿頼耶識というのは、その人の歴史の中で、例えば洋ちゃんだったら洋ちゃんのお父さんやお母さんやその時代の人たち、洋ちゃんのお友達や日本という社会なんかの無限の語りというものがずっと続いていて、その語りの集積の中に洋ちゃんが生まれてきた。私の集積と洋ちゃんの集積とマイクの集積がちょっとずつ違うから、私が持ってる世界の語りと洋ちゃんが持ってる世界の語りが違う。それ(集積)を阿頼耶識というものだとすると、その阿頼耶識の中で私は生きてしまって、(そこで語られている)全部を実体化している。洋ちゃんも洋ちゃんの語りの集積の中で生きていて、その眼鏡で世界や人を実体化してしまっている。
それが「空」である。実体のないものなんだと気づくと、何が起きるかというと、「世の中の人は全てそれぞれの語りを背負っている同じような人間なんだよな」ということ。で、(そうなると)たとえ人殺しであったとしても、嫌な奴であったとしても、それはその人のせいである以上に、その人をそういうふうに作ってきた語りがあったということでしょ。だからある意味、全ての人が「語りによって生かされている」とも言えるし、全ての人が「語りの犠牲者だ」とも言えるわけです。
そういうところから、(同じように語りの中で重荷を背負っている)どんな人の苦しみも抜いていくと...