分別からの超越は、仏教における第一義である。自他を分ける境界を取り払うと介護者と被介護者の関係性は反転し、与えている者が得ることも多い。危機を通じて関係性を紡ぎ直し、生まれ直すのも逆境の産物だ。それは「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれる「見えないものを待つ」能力にも通じていく。(全10話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●分別を超越して得られるもの
五十嵐 本来私たちはエゴイストであって、すごい修行をしないと愛を持てないということもあるかもしれないけれども、もしかすると私たちは、智恵を持つ前は一つであった(かもしれない)。だから、友達が泣いてたら、そこで一緒に泣いたりしちゃう。それが、大人になると分別がついてくるから、「これはあの人、私はこっち」みたいになる。分別って「分けて別にする」わけでしょ。その分別が駄目だと仏教は言ってるんだよね。
分別が駄目だというのは、分別によって私が「生き延び」をすることはできるけれども、「ほんとに生きること」はできなくなるから。「描いた絵」だけを見て、この「本来の破れた姿」を求めようとしなくなるから。本来の姿は私だけの本来の姿じゃなくて、もしかしたらいろんな人が入ってる、開かれている本来かもしれない。そういうことを考えたときに、分別を超越するっていうのが第一なの。
津崎 そうね。分別の話でいうと、逆境には公的な逆境(と私的な逆境)があるよね。政治的な不安──政治的な情勢が危ういとか、戦争があるとか、政変(クーデター)があるという公的なレベル。それから私的なレベル──死別するとか財産を失うとか、病気になるとかがある。さしあたって私的なレベルに話を限るとすると、例えば病気になる。大病を患ったり、あるいは私のように母が要介護であるといったふうになると、少なくとも逆境に立たされている人は健康を損なった人であり、病苦を患っている人であるということになる。
では分別がなくなるとはどういうことか。私はさしあたり健康だけれども、例えば母を介護する。そうすると、分別がある限りでは私は介護者で、母親は要介護者である。そして病苦が逆境の具体的な一つの現れだとすると、逆境に立たされているのは私ではなくて、要介護である母親である。しかし、分別を取り払うとどういうことが起きるかというと、私は介護をする身なんだけれども、母親を介護することで、実はわたしのほうがある意味で介護されているんじゃないか。介護者ー被介護者という関係性が反転していく、看病する側、される側というのが反転していくわけだ。
五十嵐 そう。
●区別の超越からコプレザンスへ
津崎 育てる側ー育てられる側にはいろんな関係性がある。教育でも、教えるー教えられるがある。上司ー部下もある。こうした関...